民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「大放言」 その1 百田尚樹 

2017年06月10日 00時23分21秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その1 百田尚樹  新潮新書 2015年

 まえがき その1 P-7

 かつて放言は一つの文化だった。
 放言は、常識に対するアンチテーゼであり、現状における問題提起であり、過激な提言であった。またしばしば毒舌的であり、ユーモラスで知的な面もあった。

 過去には多くの文化人や作家たちが様々な放言を繰り返し、大衆はそれらに反発しつつも、一方でそれを楽しんで受け入れた。世の中全体に成熟した大人の文化の香りがあった。文豪、志賀直哉は戦後、「日本語を廃止してフランス語を公用語にすべし」と真剣に主張したし、スーパースター長嶋茂雄は昭和30年代に「もし社会党が政権を取ったら野球ができなくなる」と大真面目に語った。パンツの中に隠していたコカインを発見されて起訴された超大物役者の勝新太郎は「知らない間に入っていた。もうパンツは穿かない」と言った。いずれもヒステリックな人は目くじらをたてて怒ったが、大半の人はむしろ稚気あふれる言葉として笑った。

 しかしいつのまにか社会はそうした寛容さを失った。ちょっとした言葉遣いのミス、あるいは言い間違い、行き過ぎた表現といったものに対して、過剰に反応し、「その言い方は許さない!」「責任を取らせる!」と、メディアや世論が一斉攻撃するような風潮が出来上がってしまった。

 しかも中には明らかに発言全体の文意を無視し、言葉の一部分だけを取り上げて、悪意を持って曲解し、敢えて大問題にしてしまうケースもある。本当は失言でもなんでもないものを失言にしてしまい、発言者を社会的に葬ってしまうのだ。


「私の作文教育」 その10 宇佐美 寛

2017年06月08日 00時19分21秒 | 文章読本(作法)
 「私の作文教育」 その10 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年

 第七章 文体 その2 P-173

 私は、「まとめてはいけない。バラすのだ。細かく砕くのだ。」と指示する。砕けば、当然、多くの文になる。一文ずつは短くなる。マル(句点)の数が増える。
 私は「マル一つを五百円玉だと思って稼げ。」と言う。書き直し案が出来たら、「会計検査をする。何千円稼いだかを調べなさい。」と言って、句点を数えさせる。

 このような初期段階では、とにかく句点の数が多い書き直し文を書いた者をほめる。「長者番付」を発表する。「万事、金の世の中だ。」と言う。
 詳しく書くためには、一文一義の短文のつみ重ねになるはずである。短い文でなければ、意識が行き届かない。長い文では、大きい範囲をぼんやりした思考で書くことになる。要約頭である。




「私の作文教育」 その9 宇佐美 寛

2017年06月06日 00時29分59秒 | 文章読本(作法)
 「私の作文教育」 その9 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年

 第七章 文体 その1 P-168

 この悪文の最もゆゆしい、見過ごすべきでない問題点は、次のようなことである。言い換えれば、右のような欠陥が生ずるもと(原因)は、次のようなことである。
 一文(センテンス)が長すぎる。長い一文の中に、多くの事柄を無秩序につめ込んでいる。(一文一義である。)しかも、この長い一文は、多くの事柄を関係づけまとめる構造になっている。だから、各部分が粗雑になっている。これでは、詳細に各部分を設計・点検する思考はできない。

 学生は、今までに、大ざっぱに、しかも短い文言で全体をまとめて把握する要約は教わってきた。しかし、逆に小部分にまで分解し足りない部分を補い増やす分析的思考は全然育てられていない。


「私の作文教育」 その8 宇佐美 寛

2017年06月04日 00時08分23秒 | 文章読本(作法)
 「私の作文教育」 その8 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年

 第二章 「過程作文(発想作文)」・「編集作文」 その6 P-43

 <段落(パラグラフ)>を過程作文の過程で意識してはならない。発想が萎縮し、貧弱になる。
 もし、段落が要るのならば、編集作文の段階で区切って付ければいい。

 文(センテンス)は、論理的な本質である。どこに句点が有るかが明らかでなければならない。文章を読み上げるのを聞く場合でも、どこで一文ずつが切れるのかが聞き取れなければ困る。ずらずらと音が続いては、何を言っているのかわからない。

 しかし、聞く者としては、どこで段落が変わるのかは意識しないし、確実な判断も出来ない。その必要も無い。

 中略

 文(センテンス)は、論理的に必要なものである。文の区切りと順番が重要である。
 これに対し、段落は、読みやすくするための心理的に便利な装置に過ぎない。



「私の作文教育」 その7 宇佐美 寛

2017年06月02日 00時00分53秒 | 文章読本(作法)
 「私の作文教育」 その7 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年

 第二章 「過程作文(発想作文)」・「編集作文」 その5 P-42

 「作文とは頭の中に出来上がっている内容をそのまま文字にすることだ。」というような迷信が支配的なのだろう。そうではない。筆記具を持って書くからこそ考えが生じ、まとまるのである。
 右の「書く」は、文(センテンス)を書くのである。前述のように、一文一義の文を重ねるのである。段落(パラグラフ)を書くのではない。段落など気にすべきではない。

 命題の単位である文をつみ重ねることによって考えるという流れの勢いが必要なのである。くどく、しつこくつみ重ねるのである。どんどん多くの文を書くのである。気軽に、スピードを上げて、たくさん書くのである。この気軽さは貴重である。

 これに対し、次のような批判が有るだろうか。
「それでは、やたらに重複、無駄、混乱が生ずる。乱れた、整わない文章になる。」
 そんなことは、後(あと)で直せばいい。それだけのことである。つまり、「くどく、しつこく」、しかも勢いをつけて書いた第一次作文を編集(editing)しなおせばいいのである。(「編集」という語の代わりに「修正」や「批正」と言ってもいいのかもしれない。しかし、大規模な組みかえ、入れかえ、書き足しまでを含むのだから、「編集」は良い語である。アメリカ作文教育界のeditingという語を借りる。)

 つまり、第一次作文で内容を十分に確保し、第二次作文でそれを再組織すればいいのである。このように、入念な作文は二回(二段階で)するつもりで書くべきものである。「過程作文(発想作文)」と「編集作文」の二段階である。