標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

改めて思う、今日は成人の日だが、その意味は?

2018-01-08 19:33:45 | 日記
我が家は今日も、孫のお守りがてら、ドライブでモールに行った。
その道すがら、幾つかの町で成人式に参加する(した)人たちが、数人集まって話している光景を見た。振袖を着た女性が目立った。

車中で妻が、昨日、友人と話した成人式に関する話をしていた。その人のもとに、その友人の孫の新成人が訪ねてきたという。振袖を披露しに来訪したという。その話では、最近、振袖を買うには高価なので、リースにしたが、買うのと同じ金額がかかる。一度しか袖を通さないのに、もったいないと語っていた。友人はその人にお祝いを渡さざるを得なかったとのこと。



帰宅して夕方のニュースを見たら、成人式会場に、準備した業者から振袖等が届かない、着付けができないという事件が起きたとのこと。2年も前から予約していたのに、振袖が着られないと悲しむ親や本人のことも報道されていた。業者に電話をしても応答がないとのこと。好ましくない事態だ。

いったい成人式はいつごろ始まったのか調べたところ、昭和21年に埼玉県の北足立郡蕨町(現在の蕨市)が「青年たちに希望を」と願って「青年祭」を開催したのが始まりとのこと。戦後の復興の一環だったが、これが全国に広がったとのこと。「みんなで渡れば怖くない」というブラックな標語があったが、まさに、「日本人の甘え」の構造が官民ともにある。成人式を催す自治体側も、参加する本人や親など市民の側にも、「右にならえ」状態だ。戦後直後だったら大いに意味があったと思うが、今は果たしてどうなのか? 

全国津々浦々、市区町村が祝う。そして、少なくとも晴れ着姿の準備には、少なくとも10万円を下らない。

成人式を戦禍や震災被害を風化させないためという意味を含めるのなら理解できる。そうであるなら、晴れ着とか豪華なスーツはいらないのではないだろうか。

因みに私の妻も私も成人式には出なかった。自らにとって意味が感じられなかった。式より、20歳の誕生日の方が重みがあった。親からの自立、一人で大人として社会で生きていかねばならない瞬間を感じ、身震いした。祝ってくれたのは、家族や友人だった。

武家の男子や公家の女子には、その時代には、大人になる証としての儀式があった。しかし、今や武家・公家の時代ではない。
こうした儀式は、象徴天皇とその皇族だけで良いと思うのだが。
コメント
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