標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

「共感」と「共感的理解」ということばの意味

2018-01-11 19:20:25 | 日記
昨日、昼の天気予報を見ようと思ってテレビをつけたところ、書評の番組で、中江有里さんが「共感」について語っていた。何について使っていたのかは明らかでないが、「(共感するということは)意識の下にあるもの」という内容の発言をしていた。この発言を聞き私の関心が「共感」という言葉に留まった。これも「共感」といえるかもしれない。

心理学を学んでいた頃の「共感」、「共感的理解」という言葉が浮かんだ。カウンセリングにおいて、最も重要な概念であり、かつ、「共感する」、「共感的理解」というのは、実践するのが極めて難しい。

しかし、一般的には、しばしば感動するとうことが、「共感する」といえるという。カウンセリングをより専門的な治療的な場面とするなら、厳密な「共感」を行うように努めなければならないだろう。多分、書評では一般的な「共感」としてとらえていたのだろう。

日常生活の中でも親子、兄弟、夫婦などにおいては、一般的な共感(感動に近い)をするということは大いに必要である。しかし、時には客観的な「共感」、専門的な「共感的理解」をしようとするのも必要かもしれない。改めて、共感について考えてみた。


ロジャース全集第6巻「人間関係論」(岩崎学術出版:1967年初版)の背表紙


40年以上も前の本を取り出した。ロジャース全集の第6巻「人間関係論」(岩崎学術出版社:1967年初版)だ。この本の表紙をめくると、ロジャースの顔写真と英文で書かれたことばとサインが掲載されている。
"I cannot teach another person. I can only facilitate his learning. Carl R. Rogers 1967"とある。1967年なので、日本での全集を刊行するために贈られた言葉と思える。
「私は人を教え導くことはできない。でも、他の人が生きるための援助をすることはできる」という捉え方を、私はしている。

以下は、私の理解した「共感」について述べるが、必ずしも著書に書かれていた文言ではない。

「人間関係論」の中でロジャースは、「共感」とは、まず、カウンセラーはクライエントの私的な世界の正確な理解をする。そして、カウンセラーがとらえた、クライエントのいくつかの状態を伝える。その際、"あたかも~のような"という性質を失わないようにすることが重要だという。カウンセラーはクライエントにはなれないということが重要だ。

つまり、単に一緒に笑ったり、泣いたりすることではない。泣き笑う行為は、相手の気持ちそのものではなく、泣き笑っている人の気持ちにすぎない。これは、カウンセリングにおける共感ではないということだ。クライエントの混乱や怒りの気持ちをあたかもカウンセラー自身のもののように感じるが、カウンセラー自身の混乱、怒りとクライエントのものと結びつけない。カウンセラーはクライエントになれないのだから、あくまでも「理解」である。そして、常に「共感」的理解に努める。

クライエントがカウンセラーの「共感的理解」を感じた時、カウンセラーはクライエントが漠然としかとらえていないことに対して、理解しているということを伝える。クライエントも、カウンセラーに、自分が理解されていることを伝える。こうした人間関係における敏感な「共感」を経て、クライエントが自分自身に気付き、学習し、変化し、発達するのを可能にするという。

以上は、私の理解なので、不十分かもしれない。「共感」ということは、概念ではない。実践の中で「共感」できたと感じる(認識する)ことだと思うが、いつも共感に到達するとは限らない。
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