野中広務さんが亡くなられた。私は野中さんに間違ったイメージを持っていた。当時は、それほど政治に関心がなかったからかもしれないが、怒りながら物言う政治家で「タカ派」かなという印象があった。ところが、新聞やテレビでは「ハト派」「護憲主義」ということだったとのこと。

その中で、やや違った側面から野中さんを見ている記事があった。JCASTニュースで、魚住昭さんの著書「野中広務 差別と権力」から、引用されながら野中さんの人物像を述べていた。
「から求められる役割と外から求められる役割。相反する二つの要請に応えながら、野中は双方の支持を取り付けてきた・・・二つの顔を使い分けながら『調停者』の役割を演じてきたといってもいい」と分析。90年代、連立政権の時代に、利益の異なる集団の境界線上に身を置きながら、きわめてタフな調停者として権力の階段を上っていったと見ているとのこと。
この「二つの顔を使い分け」という野中さんが、私の野中さん像になっていたようだ。
さらに、辛淑玉さんと共著で出した「差別と日本人」(角川書店)では、野中さん自らの「被差別体験」を赤裸々に語っていると紹介されていた。
「婚約のとき、妻になる人に『言うておかなければならないことがある』と切り出した。『それは僕がの出身者だということだ』。妻は、『私が理解しておればいいことです。親や兄弟まで了解を得なければいけない話ではありません』と答えた」ということだった。
政治家になる前も、政治家になってからも「出身」ということで、陰口を叩かれたりして苦労されたようだ。
私の父は、自営業を営むために、全く未知の土地で開業した。その地域は農村部であった。「よそ者」ということで差別された。私は幼少時だったので、自身にはその体験はなかった。物心ついてから、父から、住みはじめたころ受けた「よそ者」扱いについて聞かされたものだ。そして、父はこれら差別と闘うためには、「(差別)に負けてならぬものかと常に抱き、己の信念を貫くことが必要だ」というような話をよくしていた。私に諭していたのだと思う。しだいに、父は地元の人に受け入れられるようになり、信頼を得てきたという思い出がある。お蔭で、私自身は「差別」を受けたという認識はなかった。
ところで標高330mに、私が住みだしてから20年を過ぎたことは、本ブログで何度か述べている。
しかし、実は、当地に住みだしてから、何度か「差別」的な発言を聞いている。私が住んでいる一角は新興住宅地で、新たに住み始めた人ばかりだ。従って、地域の中でひとつの班を為しているが、我々の班は、別扱いにされることがある。かつて父が受けていた「よそ者」扱いと同じだった。
しかし、犬の散歩、行事や班の代表者会議への出席をしていくうちに、次第に「よそ者」意識は薄れてきた。何よりも効果があったのは、「犬の散歩」だと思う。現在の犬は2代目だ。初代の犬は、ハスキー犬と紀州犬とのハーフで、動物指導センターから譲り受けたもので、「ジロ」と名づけた。センターでは、アニマルセラピー犬として躾けていたらしく、気立てのよい人懐こい犬だった。そのお陰で、私の名前は知らなくても、「あらジロちゃんのお父さんですか?」と初対面の人からも声をかけられた。妻と私は今でも「ジロ」と過ごした日々は忘れられず、一緒に過ごせたことにを感謝している。

初代目の「ジロ」君。

その中で、やや違った側面から野中さんを見ている記事があった。JCASTニュースで、魚住昭さんの著書「野中広務 差別と権力」から、引用されながら野中さんの人物像を述べていた。
「から求められる役割と外から求められる役割。相反する二つの要請に応えながら、野中は双方の支持を取り付けてきた・・・二つの顔を使い分けながら『調停者』の役割を演じてきたといってもいい」と分析。90年代、連立政権の時代に、利益の異なる集団の境界線上に身を置きながら、きわめてタフな調停者として権力の階段を上っていったと見ているとのこと。
この「二つの顔を使い分け」という野中さんが、私の野中さん像になっていたようだ。
さらに、辛淑玉さんと共著で出した「差別と日本人」(角川書店)では、野中さん自らの「被差別体験」を赤裸々に語っていると紹介されていた。
「婚約のとき、妻になる人に『言うておかなければならないことがある』と切り出した。『それは僕がの出身者だということだ』。妻は、『私が理解しておればいいことです。親や兄弟まで了解を得なければいけない話ではありません』と答えた」ということだった。
政治家になる前も、政治家になってからも「出身」ということで、陰口を叩かれたりして苦労されたようだ。
私の父は、自営業を営むために、全く未知の土地で開業した。その地域は農村部であった。「よそ者」ということで差別された。私は幼少時だったので、自身にはその体験はなかった。物心ついてから、父から、住みはじめたころ受けた「よそ者」扱いについて聞かされたものだ。そして、父はこれら差別と闘うためには、「(差別)に負けてならぬものかと常に抱き、己の信念を貫くことが必要だ」というような話をよくしていた。私に諭していたのだと思う。しだいに、父は地元の人に受け入れられるようになり、信頼を得てきたという思い出がある。お蔭で、私自身は「差別」を受けたという認識はなかった。
ところで標高330mに、私が住みだしてから20年を過ぎたことは、本ブログで何度か述べている。
しかし、実は、当地に住みだしてから、何度か「差別」的な発言を聞いている。私が住んでいる一角は新興住宅地で、新たに住み始めた人ばかりだ。従って、地域の中でひとつの班を為しているが、我々の班は、別扱いにされることがある。かつて父が受けていた「よそ者」扱いと同じだった。
しかし、犬の散歩、行事や班の代表者会議への出席をしていくうちに、次第に「よそ者」意識は薄れてきた。何よりも効果があったのは、「犬の散歩」だと思う。現在の犬は2代目だ。初代の犬は、ハスキー犬と紀州犬とのハーフで、動物指導センターから譲り受けたもので、「ジロ」と名づけた。センターでは、アニマルセラピー犬として躾けていたらしく、気立てのよい人懐こい犬だった。そのお陰で、私の名前は知らなくても、「あらジロちゃんのお父さんですか?」と初対面の人からも声をかけられた。妻と私は今でも「ジロ」と過ごした日々は忘れられず、一緒に過ごせたことにを感謝している。

初代目の「ジロ」君。