標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

ひっそりと、何気なく咲く路傍の草花のおもむき

2017-09-25 19:06:09 | 日記
今日は、タロ(犬)と散歩がてら道端に咲いている草花などを探した。止まっては写真を撮っていたのでタロには退屈な散歩になってしまったかもしれない。


何故このように思ったかと言えば、昨日、手が加えられていない芙蓉を見てハッとさせられた。ガードレールの向こうに咲く、芙蓉とそのつぼみが庭で咲いているそれよりも自然でとてもきれいでおもむきがあったからだ。今日は夕方だったので、花が閉じかけているが。


芙蓉のつぼみもかわいらしかった。


このようにガードレールの路肩に咲いていた。

他の路傍の草花などを探してみた。


まさに道端のコンクリートの裂け目から出てきたヤブラン。黒い実をつけている。


ガードレールの支柱を取った後の穴から咲きだしたコスモス。鉢植えと同じような環境かな。


ホウセンカがきれい。


道路際の柵の向こう側の擁壁から咲き登っている状態。


キクイモだ。


網目の柵の下は雑草で、その先は谷になっている。


道端の雑草に交じり咲く、ミヤギノハギ。手前の葉をどけて写真に収めた。


道路際に捨てられたはしごによりかかり咲く、白い野菊。


名前は分からないが、擁壁の隙間から出てきた雑草。


道端に群生するアカマンマ。


タロの足元に咲く、松葉ボタン。タロがクンクンと匂いを嗅いでいる。別の犬のおしっこの匂いがしているのだろう。


テッポウユリの実。やがて種が取れるようになる。妻は種が取れるようになったら取りに来たいと言う。


近くの家の木から落ちて転がってきたのだろう。かりんが転がっていた。


栗がひとつ側溝の蓋の上に落ちていた。


擁壁の上にある栗の木から落ちたイガ。


この花は? よく見ると造花だった。この場所から20mほど離れたお宅の門に造花が飾られていた。風で飛んできたのかな。


道路の向こうは荒れ地でススキ畑だ。昨日も、今日も昼間は暑かったが、朝晩は涼しい。特に暗くなると冷たい空気が窓から流れてくる。暑さ寒さも彼岸までということばを実感できる時期だ。家の外からは大きな耳鳴りかと思う程、多種入り混じった虫の音が聞こえている。もっと秋が深まった方が、純粋な虫の音が聞けそう。
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横瀬町寺坂棚田の彼岸花と稲穂

2017-09-24 20:02:40 | 日記
昨日に続いて秩父地方のイベントに参加。今日は横瀬町の寺坂棚田で開催された彼岸花祭りに参加した。画像で棚田巡りを再現することとした。


武甲山を望む寺坂棚田。


彼岸花は少し花盛りを過ぎたころの様だった。今年は咲きだしたのが早かったとのこと。


拡大して見た彼岸花。


遊歩道はチップが敷かれていて、ソフトな踏み心地が駐車場からの上り坂の疲労を癒してくれた。


黄金色に実った稲穂。しかし、今年は例年に比べ不作とのこと。


黒っぽい稲穂は古代米とのこと。


耕運機で稲刈りをしていた。


こちらは、人力で刈り始めたところ。こちらの方が棚田にふさわしい姿だ。


20分ぐらい経た、刈った足跡が見える情景。この方は田んぼの畔に沿って周囲から刈っている。


田んぼの脇に刈った稲の束が並んでいた。


刈った稲を干している光景。


彼岸花が見ている稲木(いねぎ)。手前は稲が干されていない。奥は稲を干してある。


遊歩道の脇にガゼボがあった。今日は日が照ると暑かった。棚田には日陰になるところがこのガゼボしかない。混んでいた。


ガゼボの近くで、苅米太鼓会が秩父屋台囃子を演奏していた。小学生も頑張っていた。秩父地方では幼稚園時代から太鼓たたきを練習するとのこと。


稲刈りが終わった田んぼの稲穂を案山子(かかし)達が守っていた。


地元横瀬保育所の田んぼだろうか。保母さんを模しているのか、女装の案山子がいた。


イベント会場の定番。テント販売所だ。古代米で作った赤飯、もちや秩父名物「味噌ポテト」などを販売していた。


古代米が入った赤飯を買った。後にわが家の夕食となった。古代米の黄な粉餅も買った。販売員さんが「冷めると硬くなるよ」というアドバイスしてくださった。温かいうちに食べなくてはと思い、写真に収めるのを忘れてしまった。


「山に育てられる棚田」という説明版に書かれていた説明図。多くの棚田は、その上部に山林を擁している。山からの湧水が水源となって田んぼを潤している。段々を活用して上から下の田んぼに水が流れる。この水は落ち葉などの有機肥料を採取しやすく、山林が蓄えたミネラルを含んでいる。従って寺坂棚田の米は美味しいと言われてきたとのこと。この他、洪水を調整する、景観の保全などの役割も果たしている。


寺坂棚田は埼玉県内最大級の棚田と言われながら、荒れ果てていた。しかし、平成13年から地元農家が中心となって棚田の保存・活用しようと団体を組織し、棚田の再生につとめているという。


棚田からの帰り道に見つけたそば畑。白い花が満開だ。収穫は10月末か11月ごろだろうか。秩父はそばもうまい。11月になったら秩父巡りのついでに、クルミ汁で新そばを食べるのが楽しみだ。


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全盲新井先生の講演「心はいつもバリアフリー」を聴講

2017-09-23 19:14:54 | 日記
37歳で全盲になり、絶望の時期、リハビリを経て、ノーマライゼーションを目指し10年間の奮闘の末、公立中学校の国語教師として赴任された。新井先生のことは、NHKや日本テレビでドラマ化され、本も出版されていてよく知られている。本日、彼岸の中日で道路が渋滞の中、妻と二人で会場の秩父市歴史伝承館まで足を運んだ。

講演の案内パンフレット


講演に先立ち昨年テレビ放映されたVTRで、新井先生の授業風景を視聴した後、1時間程講演があった。

VTRの中で象徴的だったエピソードがある。先生は新入生の一人ひとりの自己紹介で、最後に生徒たち一人ひとりの「オンリーワン」を話してもらうことにしているという。録音された生徒たちの言葉を聞き直し、生徒の印象を音声でイメージしているという。

新井先生の話は障がい発生の以前から始まった。続いて、障がいが発症した時の、ショック、絶望感を語った。孤独で死にたいと思っていた時、妻がそんなにつらくて死にたいなら、妻子ともども家族5人で死のうという発言により、自殺を思いとどまったという。

その後、リハビリを受け、同じ障がいのある仲間を知った。人との出会いを通じて「できないことを数えるより、できることを数えなさい」という言葉を聞き、それを実感した。リハビリにより、一人でコンビニまで行けるようになった、点字が読めるようになったなど、障がいがあってもできることを知るようになったとのこと。

その後、障がい者の復職を支援する教師の会の支援をうけ、10年間の活動を通して、一般の中学校の国語の教師として赴任することとなった。ノーマライゼイションを教育の場で達成できた。

そして、話は教育のあり方の話へと進んだ。
教育現場にはあまり障がい者がいない。大卒後、社会経験のないまま教師になる。その教師は、障がいのことが分からないから障がいを無視する。それが差別となる。差別のない社会づくりには、障がいのある人がいるということを小さい時から知ることが必要だと力説した。

締めくくりとして、昨年の7月27日に起こったやまゆり園での殺傷事件に触れた。当時、報道で犯人が供述した「重度障がい者は生きている意味がない」ということが、報道された。新井さんは、自分も障がい者になった時、生きている意味がないと思った時期があったとのこと。この言葉を耳にして胸が痛み、未だに自分でも消化できていない。しかし、この言葉を放っておくと、弱い者いじめに陥ってしまう。報道を聞き、誰かこの言葉を強く否定してくれる人が出てくることを願ったと語る。

今、教育界はゆとり教育を見直し学力向上を目指そうとしている。新井先生は語る。英語を小学校から学ばなくともよいのではないか。学力主義の詰め込み教育ではなく、ゆとりのある教育が必要だ。現状とは異なるが、学校に障がいのある児童がいる、社会には障がいのある大人がいるのが当たり前の社会づくりが必要だ。色々な人がいるという環境の中でゆとりを持ち、命の大切さと思いやりのある人づくり教育が必要だ。

この他、視覚障がいについて一人ひとり見え方などが違うなどの話しをされた。また、残念ながらホームからの転落事故が絶えない。全国すべての駅にホームドアを設置するというのは難しい。したがって、白い杖を持ったあるいは盲導犬を連れた視覚障がいの人を街で見かけたら、声をかけて欲しいと訴えておられた。

1時間の講演であったが、新井先生の四半世紀の足跡と現在も活躍されている様子が、聴衆を元気づけたと思う。雨模様の朝だったが、講演が終わったころには、雨が上がり何かすがすがしい気持ちで帰路についた。

(付記:最後に新井先生が朗読した川崎洋さんの「存在」という詩の紹介)

    存在  (川崎洋作)

「魚」と言うな  シビレエイと言えブリと言え
「樹木」と言うな 樫の木と言え橡の木と言え
「鳥」と言うな 百舌鳥と言え頬白と言え
「花」と言うな すずらんと言え鬼ゆりと言え
  さらでだに
「二人死亡」と言うな 太郎と花子が死んだ と言え
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萩の刈り取りとジキタリスの苗植え、そして尺取り虫の観察

2017-09-22 19:05:51 | 日記
今日は曇り。日照がないので野良仕事日和。先日の台風が去ってから、萩の枝は垂れ、花は散り始め、一部が枯れてきた。萩の刈り取りをはじめとして草刈り、植栽の作業を始めた。


今シーズンの終わりを迎えた萩。今は枝が垂れてしまっているが、最盛期には2mほどの高さまで伸びた。


萩の刈り取りをしたところ。少し幹が残っている。来年、地下から芽を出すことでしょう。

 
萩の枝に隠れがちだったシュウメイギクがよく見えるようになった。これも1mを超える高さだ。まだ咲きはじめ。咲きそろうまではもう少し時間が必要。


ヒガンバナも日当たりの良いところでは、花は終わっていた。萩で見えなくなっていたところのヒガンバナが現れた。その花はまだ見ごろだった。


萩の切り株の上に、古いイスを置き、これから咲く菊の鉢植えを置いた。来年萩の芽が出たら椅子を片付け、別なところに置かねばならない。だが、今は置く場所が見当たらない? 後々考えることにしよう。


萩を切ったため日当たりが良くなったところに、ジキタリスの白と赤の苗を植えた。


萩とは別の場所だが、Uの字の格好をした尺取り虫がいた。体調は3cmほどだろうか。太さは3mmに満たない。頭を小さな雑草の花につけていた。蜜を吸っているのだろうか?

尺取り虫はシャクガというガの幼虫とのこと。いわゆるイモムシは腹部にも足があるので枝などに沿って這うように進む。尺取り虫は前後にしか足がないので、後ろを前の方に引き寄せ体の真ん中を頂点にして、Uの字に体を曲げた後、頭の方の足を延ばして真っ直ぐになり着地し、後部の足を引き寄せ、またUの字になる。これを繰り返し前進する。あたかも体を曲げたり伸ばしたりしながら長さを計っているようなので、この名がついたらしい。


画像の中央に黄緑色の枝のように見えるのは尺取り虫。枝に擬しているつもりかな。まるで体操選手が、つり輪競技で腕で体を支え、足をピンと伸ばしたまま暫く静止する姿のようだ。しかも体操の選手より長い時間だ。私がカメラを構えていたので警戒しているのかもしれない。私の方が根負けして立ち去った。

20分ぐらいして観たら、今度はUの字に曲げてじっとしていた。見たり、立ち去ったりを3回行ったが、動くところは1回しか見られなかった。残念ながら写真には収められなかった。人の気配を感じると、じっとしているのかもしれない。今日は尺取り虫に「だるまさんがころんだ」の遊びをさせられてしまった。
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小さなコスモス畑(小宇宙)に咲く花の姿

2017-09-21 19:11:02 | 日記

緑の木々、青い空と白い雲に映えるコスモス


重なった帽子のようなキバナコスモス


キバナコスモスの小宇宙

コスモスはギリシャ語で、星が整然と美しくそろう宇宙を意味するとのこと。群生するきれいに咲きそろう宇宙のようなので付けられたという。
コスモスの対語として「カオス」がある。原初神のことで、宇宙が誕生以前の混とんとした世界(状態)をいうとのこと。

でも、人間の世界は混とんとしている。北朝鮮、ロヒンギャ、地震、台風、竜巻、ISなど・・・。人事や自然に至るまで様々な苦難が多い。今朝は、陽ざしは強いが、空気は爽やかで、そよ風にコスモスが揺れている。現実の混とんさから離れ、暫くコスモスの世界に入ってみた。


ピンクのコスモス群


白いコスモス。これは一株だけだ。

隣接する荒れ地には小さな花のコスモスの宇宙がある。キバナコスモス、ピンクのコスモスそして白いコスモスも少し混ざっている。コスモス以外の花も咲いている。これら花々のいろいろな角度から幾つか写真を撮ってみた。


下から見ると透明感を感じた。空を背景にピンクの花びらに光が通過している。


横から見ると円盤のような形でそれぞれが銀河のようだ。


今日はチョウの方からカメラに近づいてくれた。アゲハ蝶とは違う種類だ。何というのだろうか?


コスモスの茎の下草として咲く、赤い花のゲンノショウコ。


コスモスの茎の間からでた男郎花(オトコエシ)。


15年ほど前になるだろうか。鳥が運んできたベニシタン。擁壁から垂れ下がって赤い実がなっている。

花やチョウを愛でながら、カメラを向けていたときは全く忘れていた。しかし、ブログを書く段階になったら、現実がよぎった。地球もコスモス(宇宙)の一員であるはずなのに、現実は混とんとしている。これでは、カオス状態だ。地球はこれからコスモスになれるのだろうか?
と、また、現実に引き戻されてしまった。

でも、そよ風、コスモス、舞う蝶と青い空の爽やかな余韻は、まだ残っている。
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