山形県には立石寺という古刹があります。この古刹に数年前家族で旅行しました。私は奥の細道で有名な松尾芭蕉が好きです。芭蕉が好きなのは、日本語が好きだからです。短い言葉にあれだけの深みや隠れた意味をつめこむ芭蕉は天才です。
閑けさや岩にしみ入る蝉の声
この句が立石寺で詠まれています。立石寺ではもの凄い大きさの巨岩を至るところで見ることができます。
阿弥陀如来をその岩に感得する方もいるようです。蝉は生命が短いです。夏の暑い日に生きているんだ!聞いてくれ!俺は生きてるんだ!聞くんだ!と言わんばりに泣きます。
短い命が悲しくもあり、また儚くもあり、また精一杯泣く姿が美しくもあります。阿弥陀如来が浄土に連れて行ってあげますよと、儚く散った亡骸を天に届けて上げているのだと思いました。なんと胸にしみ込む素晴らしい句なんでしょうか。
命のある限り、命を輝かせる。全ての生き物に神様が望むことかなと思いました。
夏草や、兵共が夢の跡
岩手県平泉で詠まれたこの句も有名です。私は、この句もとても好きです。実はこの句自体よりこの句を詠んだ時の芭蕉の様子に心を打たれました。三代続いた奥州藤原氏の栄華が一瞬で消えたのです。
芭蕉は、儚く散った兵士を思い、泣きながらこの句を詠んだそうです。5.7.5の短い日本語に、会ったことのない兵、御霊を思い、辛かったですね悲しかったですねと泣きながら句を詠む姿。
芭蕉が時代をこえて愛される理由がわかります。
俳聖松尾芭蕉は奥の細道を書き上げ、東北、北陸の旅を弟子の曽良(そら)と終えると間もなく亡くなりました。しかし、俳句本、奥の細道に、末代まで残る沢山の句を私たちに残してくれました。
まるで、蝉が一生懸命鳴くように、身魂から湧き上がる俳句にこめて言葉を奏でました。
立石寺では、蝉に同化して感じたものを詠み、奥州平泉では戦に敗れて儚く散った兵やその土地に同化し感応し俳句を奏でたのだと思いました。
目の前の命に同化する、もし、それができると凄く優しい世界が広がる気がします。完全に同化は難しいけれど、やはり、自分がその人だったら、それをされたら、それを言われたら、どうか(同化)んじるか?想像力を、働かせます。
そしたら、きっといじめや悪口はこの世から消えます。比較も差別も無くなる。
その対象を動物や植物にまで広げたら?動物愛護、自然保護に繋がります。
その対象を神様や眷属神へと広げたら?神様の無限の大きな愛に、畏怖と感謝の念が湧き起こり、自然破壊や神様への不敬などは有り得ない事だとわかります。
自分と他人の区別がなくなる。そこにはぶつかるものがいない虚空な世界。コロコロと丸い石が川から流れて砂になって他と同化して砂浜になるイメージです。
海辺の砂が、打ち寄せられる波に乗りながら、ありのままの姿で、いったりきたり。自然に生きたいと思いました。
白山の地でみた俳句です。俳句鑑賞に説明はいらなかったですね、、失礼しました。こちらの俳句は心でお楽しみください。