白龍と黒龍や、白虎と玄武など白や黒をイメージできる眷属神や神獣がいらっしゃいます。生きていると、陰極まれば陽となるといったように、黒、白はまるで振りこのように止どまる事なく動いているのかもしれません。
白黒つけるとかいう言葉があります。もちろん、世の中の犯罪なんかの悪にははっきりと白黒つける必要はありますが、意外に自分の価値基準で世の中のどうでもよい事に白黒つけている事って見渡すとある気がします。
この極端な考えをやめるのが、両忘という考え方で、禅の言葉です。禅問答というのは、私のイメージでは、子供の無邪気などうして?どうして?何で?何で?という質問に近い気がしています。
例えば、
子 どうして勉強しないといけないの?
親 自分のためになるからよ
子 どうして自分の為になるの?
親 将来役立つ??よ、、(ん!?)
子 どうして将来役だつの?
親 (学生時代のことを思い浮かべながら、、あれ、何か役だったかな、、と思いながらも、偉そうに、笑)嫌なこともやる根性が必要だからだよ。(なんて、話をすり替え、あれ?根性論??)
子 勉強は、根性を養うの?
親 うーむ、、なんか違う、、努力、、は大切、、だよ、
子 何で?何で?何で?どうして?
という感じです。笑。
なかなか、奥の深い質問です。
ドラえもんとのび太君とママの間でも出てきます。
親子のテーマ?かも。禅問答の答えは、あれこれ考え自分の中にある一番しっくりくる答えを探す。それを先生と弟子と問答する。
問答しながら、先生は弟子(親は子)がわかりやすい言葉で導くけれど、決して答えを押し付けない。
先生(親)もわからないことが沢山あるだろうし、沢山考え感じて腑に落ちるまで、自分に聞いてお互い考える。めんどくさい?かもしれませんが、
答えが出たからといって、それが正解かといえば人それぞれだろうし、結果をすぐに求めず、その考える過程に重きを置く。
学校教育も、結果でなく過程に重きをおく感じなら楽しいかもです。なぜだろう?どうしてかな?っという感じに。1+1=2だけじゃないよー、って。
答えというのは白黒はっきりさせなくて良いことも多く、揺れながら止まる点を自らが探す感じがします。だから両極端に行き過ぎ、白黒つけようとすることを忘れた方が良いかも。
止まる点が中道ですが、中道と自分が思っていても多分寄ってる気がします、どちらかに。その人の真ん中は誰かの右か左、だって、人間だもの。相田みつをさん風に。笑
だから、真ん中は神様が死後、色々判断するんだと思ってます。自分の心が恥ずかしくない生き方をしたいです。
神様の娯楽、囲碁は白黒碁石を取り合います。神様は、楽しみながら白黒取り合います。
わざわざ自分と意見が違うからといって喧嘩したり、自分と考えの違う人の悪口を言ったり、批判して誰かを負かして我こそは正しいと勝った気になったりは違うのかもです。違いがあるから楽しい!
囲碁だって、おせろだって真っ白、真っ黒な碁石だけでは楽しめませんし。最後にひっくり返されることもありますし。
むしろ、自分の考えを大切に思うように、相手の考えの中にも学ぶところを見いだそうとする方が、自分の視野も広がり、良い事だらけかなぁ、とも思いました。