宮崎駿さんの作品は、わかるようには作らないとご本人がおっしゃっているようです。確かに、何回見ても発見があったり、子供だけでなく大人の心の奥に響くキャラクターが沢山います。
神話の神、しかも隠されたりした神様にも焦点をあてていたり、神=自然という視点からも描かれていたりしているように思います。わかるようには描かないという宮崎駿監督の言葉に、「わかりたい」気持ちがふつふつと湧いてきます。笑
恋愛は人が心惹かれやすいから、キャラクターには多少恋愛もとりいれていますが、恋愛もどちらかというと人間愛、また自然と人、神と人、人に根付く差別意識、自然破壊なんかをテーマに壮大なストーリーが様々な作品に織り込まれ創作されている気がしています。
今日は、千と千尋の神隠しの名脇役について書いてみようと思います。まずは、釜爺。
ヤオロズの神様の世界に迷いこんだ千尋。名前を変えられます。名前を変えられる。これは、支配を意味したり、本来のものを隠すことを意味していると思います。岩戸を無理矢理閉められる感じ。
自ら名前を変えて、本来の自分を隠すことも歴史の中にありました。平家落人が名前を変えて山中に隠れて暮らしたこともあったようです。
人間だけでなく、神社の御祭神だって、名前を変えられ隠された神様もいらっしゃるようです。
また、名前を纏めて差別的に呼ばれた土着民もいましたし。土蜘蛛のように。
千と千尋の神隠しに出てくる愛すべきキャラクター釜爺は手が沢山ある蜘蛛と人間が合わさったようなキャラクターです。
千と千尋の神隠しの神様の世界では、人間が差別されます。人間であることを隠さないといけない世界に人間の少女千尋は迷いこみます。千尋も千と名前も変えられます。その中で、人間である千尋をそこまで差別していない神様が釜爺です。
宮崎駿さんはボイラーの火の調節をする釜爺を蜘蛛のような姿で描いています。釜爺は無数の引き出しから薬草の調合なんかをします。
お名前から想像するに、竈門の神様や塩竈神社の神様なんかから釜爺のヒントを得ている気がしました。そして、身なりは土蜘蛛からも。千尋ははじめギョッとします。しかし、釜爺は優しいのです。
釜爺の目にはサングラス。光を苦手にしているのかな。これは、岩窟に住んでいたとされる太古の土着の民、土蜘蛛も結びつけているのかなぁと思いました。勝手な私の空想です。
また、釜爺のカマからカマド、竈門の神様。三宝荒神を思いました。木彫りのご本尊が三面の津野山神界の耳の神様を思いました。御神体は磐笛。耳の神様は、神と人を繋ぐ神様だと教えてもらいました。
人が差別される世界で、釜爺は千尋の話をきいたり、千尋にアドバイスします。人と神を繋ぎます。まるで、耳の神様のように。
ところで、映画の中で釜爺が「えんがちょ」という言葉を真っ黒なススを踏んだ千尋にかけます。
えんがちょという言葉が何かわかりませんでした。調べると縁がちぎれるとか書かれていました。
竈門の神様は不敬あれば焼き尽くす火の神とも。台所でお祀りされたりしています。
しかし、チギには、契るという結びの言霊や、千木の響きもあります。高天原(天)に届く千木。祝詞にも千木高知りて、とあります。千木はお宮の天辺のの木。霊木。
えんがちょには、穢れがついたら祓い結界をはるようなイメージと、お宮の天辺の霊木、クロスの形の木のように、人の心にも感合したら天に届けるみたいなイメージが湧いてきました。これも勝手な空想です。
千と千尋の神隠しに出てくる釜爺の沢山の手は、働き者の手です。温泉の湯の温度や湯質を手を抜かず調節しています。
千尋に、手を出すならしまいまでやれ。と、ピシャリと言います。しかし、厳しいだけでなく千尋を助けたり。また、あんたも気まぐれに人の仕事とっちゃならねぇ。なんて語ります。愛すべきキャラクターの釜爺です。
千と千尋の神隠しは、千尋が神隠しにあった話かと思っていましたが、実は神様の中に、差別された太古の土着民のイメージを投影して隠したりしている気がしました。
つづく