宮沢賢治さんの銀河鉄道の夜。夫が好きで、若いころ岩手県花巻に行きました。宮沢賢治さんの故郷です。
岩手県では、花巻のほか、河童伝説が残る遠野、平泉周辺の毛越寺もその時訪れました。私達が行った時は平泉が世界遺産登録される前でした。素敵な場所でした。
夫は、また震災後、会社が社員にボランティアをする人を集ったことから、一週間ほど陸前高田や釜石にも行きました。帰ってきてからあれだけの地の復興には時間がかかるね、と言葉少なに当時言っていました。それ程甚大な被害を目の当たりににして、言葉にならなかったのだと思いました。
銀河鉄道の夜の話しに戻ります。
ジョバンニは、カンパネルラの友達で、2人は銀河鉄道に乗って旅します。その旅はカンパネルラが天国へ旅立つ列車だったとジョバンニは最後にわかります。
カンパネルラは舟から落ちた友達ザネリを助けるため、川に落ち亡くなったのです。ジョバンニは列車の中ではカンパネルラに起こった出来事に気づいていません。
カンパネルラはジョバンニに尋ねます。
お母さんはぼくのことをゆるしてくださるだろうか、ぼくはお母さんが幸せになるならどんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、お母さんのいちばんの幸せなんだろう。
ジョバンニは、
きみのお母さんは、きみがいるっていうことだけで幸せだよ。お母さんって。そういうものだと思うよ。
カンパネルラは、
ぼくはわからない。けれども、だれだってほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだね。だからお母さんは、ぼくをゆるしてくださると思う
私は、ここを何度読んでも胸が締め付けられる気持ちになります。
カンパネルラの行動は自己犠牲なのか、カンパネルラにとっては違うんだと思います。ザネリを助けるため、代わりに命を落とした自分の行動を幸せだと確信しています。
だから、自分にとっては「犠牲」ではないんだけれど、悲しむお母さんを思い、自分がとっさにとった行動による死が、お母さんを不幸にしてしまう悲しみに、カンパネルラ自身が天国へ向かう列車で苦しんでいる、、。涙
電車に落ちた人や、線路の中にいる人を助けようとして亡くなったり、海水浴で流された人を助けようとして亡くなった人のニュースを聞くと、カンパネルラだと思い、やはり胸が締め付けられます。
故人が天国に旅立つ決心がつかなかったり、残された人への思いが強ければ、どんな良い人でももしかしたら天国にいく事が出来ないのかもしれないと思いました。
震災では、沢山のカンパネルラがいたように思います。
魂は永遠だから死んでもいるんだという死生観があっても、大切な人の死を受け入れるには時間がかかるし、悲しいと思います。
死生観が全くなかったら、カンパネルラの行動は、自己犠牲です。肉体が存在していることがお母さんを幸せにすることなら、カンパネルラはお母さんを不幸にし、悲しませた息子になってしまいます。
死んだとき、全ての人の気持ちを受け取るとすると、そういう亡くなり方をした方は、助けてくれてありがとうという助けられた方の気持ちと、どうしてそんなことしたのよという大切な人からの思いを一心に受け取るんだろうなと思います。
助けようとしたのに、助からず両方が亡くなったとしたら、そんな無駄なことをして、と家族が思ったとしたら。
大切な誰かをもし失ったら、その人が天国に行けるようにただただ祈る。どうして、なんで、と思うような出来事で命をなくすことが運命にはあるかもしれません。
でも、自分の気持ちよりも、故人の幸せを思う。命は誰しも終わりがありますから、私も反対の立場になったら、49日という間は家族に責められたくないな、と思いました。もちろん、まだまだずっと命を大切にこの世を楽しみながら生きたいです。
【画像は銀河鉄道の夜の本より、影絵 藤城清治】