摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

日部神社(くさべじんじゃ:堺市西区草部)~大阪和泉の地で゛浦島太郎゛を語る、重要文化財の古社

2022年01月22日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

 

ごく普通の住宅街の中に埋もれるかのように、ひっそりと鎮座する式内社です。小さな地域の神社といった感じに見えますが、とても珍しい本殿など国の重要文化財を持つことで特筆すべき古社であり、奇麗な公式ホームページも運営されています。さらに神社は、ご祭神の子孫である日下部首の後に、誰もが知るおとぎ話の浦島太郎がいたという、和泉の地で唐突とも感じる言い伝えをさりげなくPRされています。

 

・住宅街にこんもりした空間が現われました

 

【ご祭神・ご由緒】

神武天皇、 道臣命、そして日下部の祖神の彦坐命。現在はさらに、須佐之男命、伊邪那美命、菅原道真公も加えられています。「和泉国式内社目六稿」は、゛日部神社。日下部氏の祖神日子今簀命を祭る゛と記します。その他、「神名帳考証」「神社覈録」「特選神名帳」「大日本史神祇志」「和州志」「大阪府誌」「大阪府史蹟名勝天然記念物」などが彦坐命を主神としています。

神武天皇が祭神になっているのは、記紀の記述にある日下(草香)での天皇と登美彦(長スネ彦)の戦いの記述によります。「神社明細帳」や「大阪府全志」は日臣命をご祭神に上げていますが、これは「日本書紀」の神武天皇即位前紀で日臣命が大伴氏の遠祖で道臣の名を賜ったとあり、日臣命と道臣命が同一人物だから、日部に日臣を結びつけた語呂合わせに過ぎない、と「日本の神々 和泉」で大和岩雄氏が述べられています。

大和氏は上記の書で、゛現在、当社は神武天皇、日臣命、彦坐命を祀り、彦坐命を最下位においているが、「延喜式」神名帳では一座なのだから、日下部の祖神を主祭神にすべきである゛と書かれていました。

 

・鳥居を進むと堺市指定有形文化財の神門が有ります

 

【祭祀氏族】

「延喜式」神名帳に載る式内社。現存の写本では「ヒヘ」と読ませているようですが、大和氏によれば本来「クサカベ」です。「新撰姓氏録」和泉国皇別の条に゛日下部首。日下部宿禰と同祖、彦坐命の後なり゛と書かれています。青木和夫氏によると、奈良時代の記録(インド仏教関連の文献である瑜迦師地論の跋語)に、大鳥郡日下部郷とあり、郡大領として日下部首が見えるようです。

 

・拝殿

 

【記紀関連記述】

大和氏は、日部は神武天皇よりも仁徳天皇と雄略天皇に関わる、として記紀の記述をピックアップされます。「古事記」では、仁徳天皇の皇子大日下王の御名代を大日下部、若日下部王の御名代を若日下部としたとあります。

さらに「日本書紀」の安康紀と雄略紀の話があります。安康天皇が草香幡梭姫皇女を大泊瀬皇子(雄略天皇)の后にしようと、根使主を兄の大草香皇子に遣わせます。大草香皇子は承諾の印に玉縵を天皇に渡すよう根使主に託しました。しかし根使主は玉縵が欲しくなり、天皇に拒否されたと嘘の報告をしたのです。怒った天皇は大草香皇子を殺し、また皇子に仕えていた難波吉士日香香も自ら首を跳ねてしまいます。

 

・重要文化財の本殿

 

後に雄略天皇が即位して後、結局は后となっていた草香幡梭姫皇女に根使主が玉縵をかぶっているのを見られ、事の真相が天皇にばれて根使主は殺されます。この時、根使主の子孫を分けて、半分を草香(日下)幡梭姫皇女に与えて大草香(日下)部の民とし、半分を茅渟県主に与えました。また、難波吉士日香香の子孫を大草香部吉士としたのです。

大和氏は、当社とかかわる日下部首は雄略紀の大草香部と考えます。根使主は日根(和泉国日根郡)に逃げて戦い、根使主を祖とする坂本臣の本拠は和泉郡坂本郷です。茅渟県主も和泉国の県主であり、登場人物はほぼこの神社周辺地域の人たちです。大和氏は、大化前代からあったのは「大」も「若」もつかない「日下部」であり、上記の伝承は草香部吉士が日下部首を介して和泉の日下部を管理するようになってから作られたと考えられていました。

 

・玉垣の隙間から向拝の蟇股を拝見。中央はかつての祭神牛頭天王にちなむ牛、左右が唐獅子だそうです

 

【鎮座地】

旧社地は日下部首の祖または道臣命の墳墓といわれる御山古墳(現在、大山神社の地)に有りましたが、墓といっしょに神社が有るのはまずいという理由で、明治44年に現在地に移転しました。現在地は当社に合祀された八坂神社の鎮座地でした。

 

・玉垣の格子の隙間から本殿前の石燈籠(レプリカ)を拝見

 

【社殿、境内】

室町時代初期の本殿と、もともと本殿向かって右わきにあった石燈籠が国指定重要文化財です。本殿は、建築様式や石燈籠に刻印された1369年の製作年代から、築造時期が判断されたようです。珍しい瓦葺の本殿ですが、そもそも神社の瓦葺は神仏習合の世にあっても避けられていて、明治時代以降に耐久性が良い事から採用され出したものなので、当社の本殿は誠に貴重です。重要文化財となっている瓦葺本殿は全国でも四棟しかなく、当社のものは神社境内の仏堂を改造したものだと、「神社の本殿」で三浦正幸氏が書かれています。形態としては三間社春日造でありながら背面が入母屋造という、これもあまりない様式です。石燈籠は楠正儀の奉納とされ、現在本物は収蔵庫に移され、本殿前にはレプリカが置かれています

 

 

【伝承】

日下部氏には複数の系統があると言われます。東出雲伝承では、彦坐命(日子坐王)の御子・沙本毗古(狭穂彦)王の後裔で甲斐国造と同祖だと「古事記」にある日下部連と、同じく彦坐王の御子・丹波道主王の子孫で丹後半島の浦嶋神社(宇良神社)の神主となった日下部首についての説明があります。つまり当社は後者に関わり、浦島太郎というのは浦嶋神社ご祭神の浦嶋子を想定されているようです。この浦嶋子は実在の人物で、雄略天皇の時代に、丹後で信仰されていた゛豊受大神゛を伊勢に遷座する動きで活躍された御方だと、「仁徳や若タケル大君」で富士林雅樹氏が経緯を詳しく書かれています。そして、その顛末を下地に「丹後国風土記」の記事が書かれ、それが有名な浦島太郎のおとぎ話になったらしいです。

・境内

 

出雲伝承によると、彦坐命や丹波道主王は、出雲王国の分家登美氏(のち加茂氏)と丹後海部(アマ)氏が成立させたいわゆる葛城王国(~磯城王朝。九州東征勢力前の初期大和勢力)の王であり、登美氏とほぼ同族で出雲文化を持つ系譜だというので、浦島子は自身を出雲系だと意識していたらしいです。2~3世紀に九州東征勢力が入って以降、磯城王朝勢力は日本海側に戻って行った(一部は伊勢湾や紀伊方面へ)ようですが、その前の弥生中期以降の時期に登美~加茂氏の一部が大和から河内和泉の地に移ったとする話や、磯城王朝の信仰であるという穴師神兵主神を祀る神社が和泉に存在することなどから、日下部首系の人たちの一部も同行してこの和泉の地に古くから住んでたかもしれないと思っています。これらを前提とすると、丹後の浦島太郎の話を和泉の人がするのは自然なことのように思えます。また、斉木雲州氏は、大伴氏の祖の日臣は出雲王の親族で、弥生時代にアマ(海部)氏勢力に加わったと説明していて、ここでも上記の初期大和勢力との関係が偲ばれます(「出雲と大和のあけぼの」)。

 

(参考文献:日部神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 和泉」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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