伊勢神宮、内宮の北約1kmほど、おかげ参道の北側にあります。祭神は、猿田彦大神と、相殿に大田命を祀っています。猿田彦大神は、「古事記」では、天孫邇邇芸命を筑紫日向の高千穂に案内したとされます。「日本書紀」では、その後、宇受女に送られて、伊勢の狭長田の五十鈴川上に至ったといいます。
境内社として、天宇受売命を祀る佐溜女神社があり、芸能の神として崇敬され、8月の例祭にはにぎやかな行事が繰り広げられます。
大田命は猿田彦大神の後裔とも別名とも言われます。「皇大神宮儀式帳」には、倭姫に五十鈴川上の地をお教えしたのが大田命だとしています。「倭姫命世記」では、"御止代神田"を献上されたとあります。この猿田彦大神、大田命の子孫が宇治土公氏で、代々内宮に「玉串大内人」として勤使しました。禰宜に次ぐ重職で、明治4年まで世襲で務めたそうです。宇治土公氏については、皇大神宮(内宮)についての記事にも追加の説明を記載しています。
・拝殿
・本殿
元々は、宇治土公氏の邸内に祀られていて公邸の移転で数回動座しましたが、1677年に現在地に落ち着いたとみられています。昭和初期に拡張工事があり、次いで現在の社殿が、遷座祭に向けて1970年から造営が始まり、1977年に完成。猿田彦造と呼ばれる二重破風・妻入造の独特なものです。昭和の拡張前の神殿場所を示した八角の石柱があり、参拝者が願いをかけていました。また、堅魚木、欄干や鳥居、手水舎、などの柱もすべて8角形です
猿田彦神社は、「御田祭」が行われる事でも有名です。この祭は、大田命が天照に奉った大御田植の神事にもとづくもので、5月5日に本殿東隣の神田で斎行されます。(以上、参考文献 谷川健一氏編「日本の神々」黒川典雄氏)
猿田彦大神とは、東出雲王国伝承では、元々は出雲の神だと説明しています。「出雲国風土記」に出てくる佐太の大神がサルタ彦です。その父神が伯耆国大山に祀られたクナト大神、そして、母神は三瓶山に祀られた幸姫(サイヒメ)命(別称がヤチマタ比売)です。サルタ彦を含む三神を出雲伝承ではサイノカミ三神(幸の神)と呼び、いわゆる、岐(チマタ)の神と同じと説明しています。ある出雲の神話では、サルタ彦は隠岐国から嫁を迎えます。その名が、サルタ彦と臼で餅をついていた事から、ウス女命と出雲では呼ばれたとのダジャレのような話があるらしいです。
伊勢の神、伊勢津彦は出雲から伊勢国に移動した人だと云いますが、それは、「播磨国風土記」での”伊和(岩)大神の御子である伊勢津彦”の表現からも分かります。播磨は伊和大神のいる出雲王国の領土でした。伊勢津彦は、西出雲の鼻高山にあったサルタ彦の神霊を伊勢の安坂山に遷します。その北には椿大神社が有り、社家を務めたのは猿女ノ君でした。この事から、伊勢津彦が猿田彦大神に例えられたり、その妻が宇受女命に例えられたりしたと云います。
もう一説、宇受女とは、元々は宇佐女、つまり(豊国の)宇佐の女性だとする話が有ります。この人は記紀にも見えており、最後は椿大神社に行き、そこで亡くなったとの伝承です。
なお、柱などすべて8角形というのは、出雲の聖数八にちなむと考えられます。”八雲たつ”の八ですね。