摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

西宮神社(西宮市社家町)~海部や椎根津彦とえびす様の関り

2021年06月26日 | 兵庫・西摂津・播磨

 

古くから金運上昇の御利益があるとされ、全国に約3500有るえびす社の総本社です。もともとは航海や漁業の神として信仰を集めましたが、室町時代以降のえびす信仰の隆盛で、商売繁盛に御利益がある福神エビス様として一般に知られます。毎年お正月の「十日えびす」、そして1月10日の「開門神事福男選び」は必ずテレビのュースで放映され、毎年のように見続けてきました。現在のご祭神は、第一殿(東)西宮大神こと蛭子命(えびす大神)、第二殿(中)天照大神と大国主大神、第三殿(西)須佐之男大神です。さすがの有名神社で、神社会館や祈祷殿が近代的でした。

 

・福男選びのスタートとなる表大門、通称赤門。左右に繋がるのが大練塀。共に重要文化財

・大練塀。築土から宗銭、元銭が発見されたことから、室町時代に建造されたものと推定されます

・一部、修築作業の真っ最中でした。

 

 【多くの寄り神と海部】

西宮夷の名が文献に見えるのは平安末頃の「伊呂波字類抄」が初めてなようですが、この西宮夷がどのような起源をもつのかしい問題だと、「日本の神々 摂津」で落合重信氏が書かれています。結局は、神社が御由緒として説明する伝承が真因になるようです。つまり、昔、和田岬で漁夫の網に再び懸かった神像を斎き祀り、託宣によって西方の好き地に鎮めまいらせたのが、現在の戎社という事です。また、この辺りには、海から上がったという神の伝承を持つところが多いようで、落合氏は以下の例を挙げられます。

 

・注連柱。ここで少し右に曲がります

 

  • 東灘区本山北町 稲荷神社    一基の神輿が波に浮かぶ

  • 灘区新在家南町 若宮神社    一の小箱が海辺に流れ来る

  • 灘区大石南町  住吉神社    ご神体が海中より出現

  • 中央区旧脇浜村 二つの八幡社  共に海に向かって鳥居あり

  • 須磨区須磨寺町 須磨寺     和田岬の海中から聖観音

 

・メインの境内。ランナーは、ここで少し左に曲がって、拝殿に突っ込むようです

 

これらは、寄り神的な要素が十分見られるところに注意すべきで、直接に海部の存在を物語るものも少なくないようです。こうした事から、西宮神社の起源も、寄り神的な考えを根底とする漁民(海士アマ)信仰の一つだったのではなかろうか、と落合氏は考えます。海部が垂水の海神社を祀ったことはまちがなく、明石国は海部が占拠し勢力を張った地方だとされたり、た゛尼崎゛はもともとは゛海士ヶ崎゛だったといわている事からも、それは裏付けられます。また、この辺りの海岸は、とにかく戎社や蛭子社があちこちに祀られているのです。

 

・拝殿

 

【廣田神社との関り】

そんな多々戎社が鎮座するなか、この社が現在に至る隆盛をみるに至ったのは、当社とゆかりある広田神社が、神祇伯を世襲した白川家の最も重要な所領だった関係で、広田神社と一体となって繁栄したようです。そもそも当社は戎社と呼ばれ、南宮とともに広田神社の末社の一つだったのであり、実は広田社の方が西宮と呼ばれてたのです。それが次第に戎社の格が上がり、当社が西宮と呼ばれるようになっていきます。

 

・拝殿の拝所から本殿を望む。桁間五間で、神が御鎮座する三つの間に千鳥破風があります

・側面も屋根が下ろされ、流造りでなく三連春日造という珍しい形式です

 

【西宮エビスの繁栄】

当社が西宮神社として独立して以降、こちらの戎神が全国に勧請されていきますが、江戸時代に入って1653年の火事(表大門と大練塀のみ残る。共に重要文化財)と1663年の再建後に、゛戎像神札゛を発行するようになり、以来国々に社用係を置くことで拝受者が年々増加したことが、西宮神社の名を全国に広げる大きな要因になった、と落合氏は述べられています。

 

・結構広い神池があり落ち着いて散策できます。池の向こうに見えるのが近代的な祈祷殿

 

【境内社】

境内には興味深い摂末社もあります。まず、百太夫神社。当社北に今も産所町がありますが、昔そこに住んだ傀儡子(くぐつし、かいらいし)が片から箱を吊るして人形芝居を見せていました。百太夫は傀儡子の祀る神で、コケシのような木製のもので沢山祀るところから百太夫といわれただろうと落合氏は言われます。1839年以来、末社として祀られています。

 

・百太夫神社

 

大国主西神社は「延喜式」神名帳の菟原郡に載る式内社ですが、「五畿内志」を編纂した並河誠所が強いて西宮神社に比定したところから、一時期当社と大国主西神社は同一と扱われていました。明治時代にごたごたがあったらしく、西宮神社が社格上は県社となりますが由緒上は広田神社の摂社とすべきとされ、そして大国主西神社も境内にあるのに西宮神社と並んで県社となります。しかし戦後、その制度がなくなり、大国主西神社は境内末社となっています。落合氏は、本来の大国主西神社は菟原郡(芦屋市とそれ以西)に探すべきだと考えられます。

 

・大国主西神社

 

沖恵美酒神社は、元は境内外の荒戎町に鎮座してましたが、明治5年境内に遷座しました。通称゛あらえびすさん゛と親しまれる事から、えびす様の荒御魂とされます。これに関して、「大倭神社註進状」の裏書にある、椎根津彦命の広田西宮三良殿祭祀伝承では、沖恵美酒神社が奥夷社であり元々椎根津彦命をていたと書かれています。吉井良隆氏はそもそも奧夷社の元鎮座地が保久良神社だったのでは、と考えておられました。とにかく、やはり海部氏が関わってくるのです。

 

沖恵美酒神社 拝殿

沖恵美酒神社 本殿

 

【伝承】

蛭子(ひるこ)命や恵比須様は、一般に事代主命や少彦名命と同じ神様だと理解されます。東出雲王国伝承の説明では、とどのつまりは東出雲王国の王で、後裔の分家・登美氏(後、三輪・賀茂氏)の始祖になります。九州東征勢力が大和に来る前に、登美氏と海部氏(元々アマ氏。海部の名は後に神功皇后が付けたそう)は連携して初期大和勢力(いわゆる葛城王国)を形成しており当時の力関係は最終的には登美氏が強くなったと伝承は云うので、海部が登美氏の始祖を祀るというのは、その話と合っているようにも思えます。

 

・廣田神社の摂社、南宮神社。なので、廣田神社のHPに載っています

 

蛭子命(恵比須様)が海の彼方から寄り来る様は、゛客人神゛とも考えられていて、そこから゛夷゛の表記には異民族に由来するとの考え方もあるようです。ただ、出雲伝承から見ると、これは無難な言い方をしているように見えます。というのも事代主命の血筋をもつ子孫達は一時(九州東征勢力による大和勢力の゛蝦夷(まつろわぬもの)゛だった時期が有る、と言うのです。この事が、蛭子命が生まれてすぐに海に流された話に関係したような気もするのですが、「出雲王国とヤマト政権」で富士林雅樹氏は、"海上を照らして近寄って来る神゛とは、出雲地方のセグロウミヘビの様子で竜神信仰やヘビ信仰だと書かれています。現在は幸せをもたらして下さるえびす様とは、本当に難解な神様のようにみえます。

 

・傀儡師像。神社北門から出て250mほど北に行った産所町にあります

 

(参考文献:西宮神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、梅原猛「葬られた王朝」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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