[ つばきおおかみやしろ/つばきおおじんじゃ ]
当社も大阪からは遠方の神社ですが、鈴鹿市は十分に日帰り圏内で鈴鹿ICからも近い事から長らく参拝したいと思っていました。さすが伊勢国一の宮とあって、土曜日で天候も良かったせいか大勢の参拝者で賑わっているという感じでした。参拝後は椿会館で、かつて先代宮司夫人がふるまって有名になったという「椿とりめし」をおいしくいただきました。
見出し写真の石標は現在の参道に向かっていますが、コチラが正面視
【ご祭神・ご由緒】
主祭神は猿田彦大神。そして、相殿神として瓊瓊杵尊、栲幡千々姫命を、配祇神として天之鈿女命と此花咲邪姫命がお祀りされています。そのほか、行満大明神と三十二柱の神々が合祀されます。また、当社別宮として祀られている椿岸神社には、主祭神として天之鈿女命を、相殿に太玉命と天児屋根命がお祀りされています。
神域の参道
社伝によるご由緒は、垂仁天皇二十七年、倭姫命の神託によって御船磐座の付近に、伊勢の開拓神として猿田彦命を奉斎するために社殿を創建したと説明されます。御船磐座は、現在も参道入口から歩いて途中左手の「土公神陵」の前にあり、社殿は瓊瓊杵尊が船でここに到着された場所だとのことです。また、「土公神陵」は猿田彦大神の古墳だと伝えられています。
高山土公神陵(たかやまどこうしんりょう)
「日本の神々 東海」で中野泰志氏は、社伝にあるとおり猿田彦大神は当社では最も古くから祀られていたと考えられ、また行満大明神については猿田彦大神の神孫で修験道の開祖として役行者を導いたという社伝があるとも書かれています。
最後の鳥居
【祭祀氏族・神階・幣帛等】
当社の神主は代々山本家の世襲ですが、社伝によれば、山本家は猿田彦大神の神裔で、当社創始以来、猿田彦命を襲名していましたが、崇神天皇の頃に神名の使用が禁じられたために行満と称するようになり、その系譜が現代にまで続いているとのことです。なので、社伝は行満大明神を同家の祖先神としています。祭祀氏族については異説もあり、太氏とする説(御巫清直)、鈴鹿川河口の河曲郡海部郷に着目して海部族とする説(岡田米夫氏)もあります。
拝殿
当社が文献に見える古い記録としては、748年に下された「大安寺伽藍縁起井流記資材帳」記載の三重郡河内原六十町のうちに゛東椿社゛が見えます。ただ、上記の御座清直がこの゛椿社゛を同じく式内社である椿岸神社であるとしている事を、中野氏は付記されています。つづいては、「三大実録」の865年の条に従五位上勲七等だった椿神を正五位下にする記載があり、「日本略紀」の891年の条には椿神に従四位下を授ける記載が載ります。
境内
【中世以降歴史】
中世には当社は仏教の影響を受けるようになりますが、いくつかの別当寺のうち瑞光寺と光雲寺より南北朝時代に奉納された大般若経六百巻が当社に現存します。その1379年書写の第一巻奥書に゛奉 施入一宮山本大明神 大願主比丘尼 聖周゛とあるほか、1391年書写の第六百巻奥書にも゛一宮゛の記述があり、当社が伊勢国一之宮だった根拠となっています。
社務所が伊勢の猿田彦神社のような造り
戦国時代には多分に漏れず戦乱の為に社領の荒廃が進みます。とくに、1583年の豊臣秀吉の峯城(亀山市)攻撃によって社殿、別当寺、宝物、記録類を焼亡してしまいました。しかし近世になると、代々の亀山藩主によって所領が安堵されるなどの保護を受け、1637年には本田俊次が社殿と鳥居を造営し、同時に御供田として上田三反一畝を寄進しました。さらに寛文の頃(1661年から1673年)より藩主板倉重常から重冬の代にかけて、社殿、拝殿、神楽殿、廻廊、鳥居などの造営や神輿、装束の寄進と祭祀の再興がなされました。このような亀山藩主からの寄進等はその後も続いたそうです。
明治時代にはいると、明治4年に郷社、明治39年に神饌幣帛料供進指定社になります。昭和3年には県社となりました。
拝殿。本殿は窺えませんでした
【「椿」名】
当社の「椿」の名前に関しては、古くからこの地に椿の木が繁殖していた為とする口伝や、仁徳天皇の霊夢によるという社伝があるようです。少なくとも、14世紀の「神鳳抄」三重郡の条に内宮領として゛椿御園゛と見えるほか、当社の裏山が「椿ヶ嶽」と呼ばれること、また別宮の椿岸神社の旧社地を「下椿」と呼ぶことなどから、古い地名に由来すると、中野氏は書かれています。
椿岸神社石標
なお、椿岸神社は明治41年に当社に合祀され、昭和43年に独立して境内に奉斎されるようになりました。四日市市にある同名社とともに、式内社椿岸神社の論社とされています。
椿岸神社鳥居
【所蔵神宝・祭祀】
社宝としては、獅子舞御祈祷神事に用いられる獅子頭が伝えられています。社伝によれば、修験神道の元祖行満神主が創始し、聖武天皇の勅願によって盛行されるようななったということです。天地人・四方八方を祓い清めるもので、三年に一度、1300年間にわたって続けられてきた日本最古の獅子舞といわれています。近年は、2月より4月までの間、近隣地域のみでなく北伊勢、尾張、三河地方まで祈祷巡舞します。社伝によれば、この獅子舞は鈴鹿市の式内伊奈富神社の獅子神楽の原形とされていて、昭和38年に県の無形文化財に指定されました。
椿岸神社拝殿
【龍蛇神両地神社】
椿岸神社拝殿の向かって右側、かなえ滝の横に、龍蛇神両地神社が祀られていて、そのご由緒説明が興味深いです。つまり、゛龍蛇神とは、大国主大神さまの御使神で、出雲地方に由緒があり、十月の「神在月」に吹く強風によって「神々の先導役」として「稲佐の浜」に漂着するセグロウミヘビのことで、その姿が神の使いである「龍」とも似ている事から、「龍蛇神」として篤く信仰されている゛゛又、両地とは地の働きを司る猿田彦大神(椿大明神)であり、全ての物は天の氣を浴びて活躍する。この行動が「生」「死」と「再生」を司っている゛
龍蛇神両地神社
セグロウミヘビは、太平洋、インド洋の暖海域に広く分布し、暖流に乗って日本海域にもよく現れる小型の蛇で、特に出雲地方では掲示の通り、神在祭の時期に浜辺に打ち上げられるので、神の使いとして信仰・奉納されるようになったと、一般にも理解されています。下記に記した東出雲王国伝承でも、富士林雅樹氏がセグロウミヘビに関して説明されていましたが、当社としても出雲との関係をほのめかしているように感じられる掲示説明です。
椿岸神社本殿。平入の神明造
【伝承】
おなじ伊勢で猿田彦大神をまつる猿田彦神社の宮司は、大田命の後裔の宇治土公氏が務めて来たと言われます。富士林雅樹氏は「仁徳とワカタケル大王」で、椿大神社の神職も宇治土公氏であり、サルメ(猿女)の君とも呼ばれたと書かれています。一方、勝友彦氏は「親魏倭王の都」で、紀元前3世紀末から同2世紀あたりの頃に、クシヒカタ命が出雲王国から摂津三島を経由して大和(葛城~磯城地域)に入った話に続いて、一部の出雲人が伊勢に移住し、出雲井社を椿大神社に遷した話をされます。その人が伊勢津彦と呼ばれたらしいです。
椿岸神社拝殿横のかなえ滝
また斎木雲州氏によれば猿女氏は、クシヒカタ命が始祖となる登美氏の分家で、大和の葛城に今も残る「猿目橋」の地名がその猿女氏が住んでいた名残だと云います。3世紀には出雲系神社の余興として「天の岩屋戸」の神楽を行っていたらしいです。さらに、伊勢の猿田彦神社を創始したとされる大田命は、三輪神社(大神神社)の大田氏だと書きます。ただこれについては、猿田彦神社が江戸時代まで宇治土公氏の邸内社だったはずなので、少し妙に感じますが、伊勢神宮の創建に協力した御方が(登美氏の後となる)大田氏にいたという事でしょうか。いずれにせよ大まかには、出雲をルーツとする人たちが出雲或いは大和から伊勢に入って出雲から勧請したサルタ彦大神を祀って来たというのが主張です。最終的には猿女君の宇治土公氏が務めて来て、お名前が変ったということでしょうか。
猿女君は天鈿女命の子孫だとされますが、出雲伝承からはウズメ命に子孫がいたようには感じられません。そして伝承は、ウズメ命が奈具社からこの地へ来たのは確かだと主張されていて、ここで最期を迎えられたと一貫して説明されています。
椿大神社(左)と椿岸神社の分岐場所
(参考文献:椿大神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「角川日本地名大辞典」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 東海」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)