内宮です。天皇家の皇祖神、太陽女神とされる天照大神をお祀りする、皇室、国家の祭祀の場です。
【ご由緒】
鎮座の由来は、日本書紀に記載されている話が一般に語られます。元々、天照大神は大和の宮中にあって、天皇が親祭を行っていましたが、崇神天皇が恐れ多いとして、宮廷外の笠縫邑に遷し、豊鋤入姫に奉祀させました。その後、垂仁天皇期に奉仕役を倭姫に交代、姫は笠縫から近江、美濃と移動、伊勢国に至った時に天照大神が神託を発し、「この国にいたいと思う」と述べた事から、この地に社を建てられたのが始まりとなりました。
・宇治橋から
谷川健一氏編「日本の神々」で松前健氏は、この話は大和の皇室と伊勢の神とを結びつける為の推源説話にすぎない、と述べられています。元々その崇拝が宮廷内にあったとすれば、天照大神の祭祀の痕跡が宮廷の祭式の中になければならないし、天皇の即位儀礼や大嘗祭などの王権祭式も伊勢神宮で行わなければならないはず。しかし、即位の際に天皇が伊勢におもむくことはないし、宮廷と伊勢神宮の建物の構造も全く違う事を、松前氏は疑問に思われていました。
・五十鈴川と御手洗場
また、豊鋤入姫や倭姫も、7世紀頃確立された斎王制度の由来を語る為に造り出された神話的人物で、なぜ二人なのかはわからないとの事です。その斎王にしても、神宮に実際に出仕するのは年に3回の三節祭のみ。それも庭前に太玉串をささげて拝礼をするだけで、"心の御柱"に神饌供進を行う最も重大な儀式、由貴の大御饌には参加しません。ここから、斎王がもともと天照大神とそれほど密接な関係とは思えないと云うのです。
・瀧祭神
【天照大神の原像】
それでは、そもそも天照大神の原像とは何なのか。もちろん諸説ありますが、松前氏は、伊勢ローカルのアマテル神だったと考えられました。天照大神の他に、天照神、天照御魂神と呼ばれる太陽神らしい神が各地に祀られています。わが摂津三島も、茨木市に天照御魂神社が3カ所鎮座しています。それが伊勢では、漁猟民磯部らの奉じる素朴な太陽神を、大和朝廷の貴族たちが皇祖神と考えるようになり、斎王や官人達を派遣するようになったと結論付けられています。ただ、なぜ、伊勢の太陽神なのかは、述べられていません。
【天照大神の生成】
同書で大和岩雄氏が、"天照大神の生成"と題して論考をされています。伊勢国風土記に、伊勢津彦(出雲の神の子)が天日別に攻められ東に逃げる話が載っています。伊勢津彦は大田田命の子孫である舟木氏に通じ、雄略記にある(朝明郡と思われる)朝日郎と重なり、”大田命”を祖とする宇治土公氏は舟木氏の一派としています。一方、天日別は天村雲の孫であり、阿波忌部及び渡会神主の祖で、"尾張氏の別姓"とも言われる丹波の海部氏と関係すると考えられます。伊勢国風土記の話は、雄略帝の時期、舟木氏のアマテル祭祀と丹波海部氏の信仰が習合し、阿波忌部氏により祭祀権が交代した事を表してると考えられます。さらにここでは、後述する天日矛系息長氏の日光感情伝承も習合して、王権祭祀となったのです。この時、宇治土公氏は渡会氏に従うようになったと推測されます。
伊勢神宮の祭祀の上限は雄略期ですが、斎王が継続して任命されるようになったのは継体帝以降で、この大王の息長氏、尾張氏とのつながりや丹後を含む日本海との緊密さから裏付けられます。その後、敏達帝の時代に"海照神"から"天照アマテル神"へと変化していき、忌部氏に代わり中臣氏が伊勢の祭祀に影響力を持つようになりました。さらに天照神は、天武帝以降の、古代天皇制の祭祀イデオロギーにもとずく伊勢神宮の改革により、万世一系の皇統譜の成立過程の中で、”天照アマテル御魂神”から"天照アマテラス大神"になったと結論付けされています。内宮の禰宜が渡会氏から荒木田氏に交代したのもこの頃でした。
「日本書紀」の倭姫の伊勢への道程の中で、近江に寄っているのが一見不可解です。大和氏によれば、天智天皇の両親、舒明・皇極(斉明)天皇は二人とも息長氏系天皇であり、天智が蘇我氏を討つのは当然だとされます。また、有名な神功皇后(息長帯姫)の系譜を見ると丹波の名を持つ御方がたくさんおり、息長氏が丹波と関りを持つこともあり、息長氏の本拠地である近江が道程に加えられたと考えられます。そして、内宮と外宮の神は、そもそも海部氏の祀る寄神と姫神が、日神とミケツ神に別れたものだ、と捉えられていました。
【荒祭宮】
荒祭宮は、天照大神の荒魂を祀るとされています。先の外宮の記事で書きました通り、荒々しい、でなく、顕れ御魂であり、神霊が神意をあらわして発動する意味です。この神は変事の際には鳴動すると信じられていて、「康富紀」に1447年、大神宮正殿と荒祭宮が鳴動したと書かれているようです。
荒祭宮は他の別宮とは別格で、先の三節祭の時の最も大切な由貴の大御饌は、正宮に引き続いて荒祭宮(と滝祭神)にささげられます。ここから、元々男神だった頃の天照大神を祀っていた本殿だったろうとの説もあるようですが、松前氏は神託を掌る巫女の齋所だと考えられていました。大神神社に対する、姫踏鞴五十鈴姫やセヤタタラヒメを祀った狭井神社の関係と同じという事です。
【伝承】
東出雲伝承では、伊勢の太陽神はそもそもは出雲の三瓶山の太陽の女神(幸(塞)の神三柱の幸姫。またの名ヤチマタ比売)だっ たと説明します。まず、出雲王家から高槻市を経由して大和に移住した分家・登美氏の天日方奇日方が大和の纏向に落ち着い た際、三輪山に遷します。アマ(後の海部・尾張)氏、高鴨氏、磯城氏との初期大和勢力(九州東征勢力の前)の中で、登美氏は祭祀を担当する家として、大王の為に祭祀を行うヒミコを何人も輩出し、登美(鳥見)山から三輪山を遥拝する行事を行ったらしいです。また、忌部氏については、東出雲富氏の分家、玉作湯神社に祀られた櫛明玉或いは太玉命の後だと説明されています。祭祀の面で登美氏をサポートしていました。
そこに、魏志倭人伝に書かれている時代、九州からの東征軍がやってきて大和は騒然とし、太陽神は三輪山を追われます。そして、丹後の海部氏が一時受け入れ倭姫がその地で祀りました。その姫が、既に伊勢に移住していた登美氏の伊雑登美彦を頼り、伊勢に移住して内宮を建立、太陽神をお祀りしたという流れだと、出雲伝承は説明します。つまり政権と共にあるべき太陽神は一時途絶えたけれども、伊勢で復活したということらしいです。ただ、倭姫自身については、複数の人物像が語られています。そして、倭姫はもちろん、豊鋤入姫も存在する、としています。
そこに、魏志倭人伝に書かれている時代、九州からの東征軍がやってきて大和は騒然とし、太陽神は三輪山を追われます。そして、丹後の海部氏が一時受け入れ倭姫がその地で祀りました。その姫が、既に伊勢に移住していた登美氏の伊雑登美彦を頼り、伊勢に移住して内宮を建立、太陽神をお祀りしたという流れだと、出雲伝承は説明します。つまり政権と共にあるべき太陽神は一時途絶えたけれども、伊勢で復活したということらしいです。ただ、倭姫自身については、複数の人物像が語られています。そして、倭姫はもちろん、豊鋤入姫も存在する、としています。
この伝承を見る限りでは、元々太陽神は出雲系登美氏ら大和先住勢力が祀っていた神なので、九州東征勢力以降の大和政権の祭祀との間で二重性が出てくるのは、分かる気がします。
大和氏の論考で、大田田命と大田命は関連があるとして伊勢津彦と舟木氏を繋げていますが、出雲伝承では伊勢津彦は出雲王国から直接移住したイメージで一貫しており(大和氏も「伊勢国風土記」の”出雲の神の子”の表現は認識されています)、一方、舟木氏は神八井耳命の後とされているので、ここの区分けは両者は異なるようです。大田というと登美氏の分家で太田田根子が思い出されますが、大和氏は考慮されていませんでした。
<”三輪・伊勢同体信仰”が有るという奈良県大神神社の三輪流神道についてコチラで記事にしています。さらに、太陽女神に関する大和岩雄氏と東出雲伝承の差異について、大阪府八尾の天照大神高座神社の記事で対比してみました>