摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

粒坐天照神社(たつの市龍野町日山) 摂津三島との繋がりを偲ばせるイイボのアマテル神

2025年02月22日 | 兵庫・西摂津・播磨

[ いいぼにますあまてらすじんじゃ/りゅうざじんじゃ ]

 

姫路市よりさらに西という、高槻市からは少々遠方になる地ですが、同じく三島の茨木市に鎮座する新屋坐天照御魂神社や、元々その摂社だったという疣水・磯良(いぼみず・いそら)神社と何らかのご縁がありそうと語られる神社である事から、是非とも参拝をしたいと思っていました。当社に近くには、「播磨国風土記」に見える野見宿禰の墓とされる野見宿禰神社もありますが、相当に山を登らなければたどり着けなさそうなので、今回は訪問しませんでした。

 

二の鳥居の後は階段上に随神門があります

 

【ご祭神・ご由緒】

主祭神は、天照国照彦火明命です。社伝による創建のご由緒は、推古天皇二(594)年、当地の有力者だった伊福部連駁田彦の家の裏にある林の上に異様に輝くものが現われたという話から始まります。それはやがて容姿端麗な童子と化し、自分は天照国照火明命の使だと称しました。駁田彦はその際、一粒の稲種と水田を授かりこれを耕作したところ一粒万倍の大豊作となり、以降この土地は「米粒」を意味する「イイボ(粒・飯穂・揖保)」郡と呼ばれ、播磨の穀倉地帯となりました。そして、的場山(通称台山)に祠を建て、農業の神であるご祭神火明命を祀ったのが始まりとされる、ということです。駁田彦の子孫は、慶長(1596~1615年)頃まで当社の祭祀を継承しました。

 

さらに登ると絵馬殿に。

 

なお、「イイボ」に関しては、「播磨国風土記」にみえる天日槍と葦原志挙乎の国占めの伝承で有名な「粒丘」から来る説もあり、その地は同じくたつの市揖保町にある中臣印達神社の中臣山が比定されていることも付記しておきます。つまり、客の神(天日槍)が強い事を怖れて、主の神(葦原志挙乎)が先に領地を確保しようと廻り、粒丘に登って食事をされました。その時口から粒(飯粒)がこぼれました。それで粒丘という、という件の話です。

 

拝殿

 

【アマテル神とアマテラス神】

当社は、「延喜式」吉田本、武田本では゛粒坐アマテラスカミ社゛と訓み、九条本では゛粒坐アマテル神社゛と訓む式内名神大社ですが、現在の読みは上記の通りです。「日本の神々 山陽」で糸田恒雄氏は、かつてこのブログの伊勢神宮・内宮の記事でも取り上げた松前健氏の説を取り上げ、天照大神(アマテラスオオカミ)とは別系統の古い太陽神であるとします。ご祭神は、天照大神の孫で瓊瓊杵尊と兄弟(親子とする説明もある)であり、尾張連の遠祖とされ、さらに社伝に見える伊福部連も尾張氏系の氏族という関係になるのです。糸田氏は、同じく式内名神大社の他田坐天照御魂神社や新屋坐天照御魂神社のご祭神も火明命である事にも触れられ、太陽神と農耕神が不可分の関係にあると考えられています。アマテラス読みとなったのは、有名な伊勢の皇祖神にあやかろうとして、いつ頃かにそうしたように感じられます。

 

拝殿奥の幣殿と本殿

 

【神階・幣帛等】

851年の神階は従五位下だったのに対し、860年には従四位下となっています。「延喜式」神名帳では揖保郡七社のうちの名神大社でした。播磨国では高い崇敬を受け、伊和神社海神社とともに播磨三大社と呼ばれる播磨屈指の大社に位置付けられていますた。

 

本殿。三間の寄棟造

 

【祭祀氏族】

ご由緒に登場する伊福部氏は、伊福吉部、五百木部、廬城部とも表記され、イフクベ、イフキベ、イオキベ等と読まれます。伊福部連は天武天皇十三年に宿祢姓を賜っていて、「新撰姓氏録」左京神別下に゛伊福部宿祢。尾張連同祖。火明命之後也゛とみえますが、河内国神別にも゛五百木部連。火明命之後也゛ともあります。大化前代の部民の一つで、東は陸奥、武蔵から西は薩摩まで広く分布しましたが、美濃を中心とした地域と中国地方に濃密である事が特徴と、「日本古代氏族事典」にあります。

 

菅原神社と神牛。本殿も瓦葺

 

「三代実録」貞観四年に゛播磨国揖保郡人雅楽寮答笙生無位伊福貞。復本姓五百木部連゛と播磨の人が見えますが、ここから笛を吹くことを掌った部民すなわち吹部とする説が有りました。しかし、吹部としては別に笛吹部が設定されているので問題があるということで、現在では(1)名代・子代部(景行天皇の皇子五百木之入日子命の)、(2)息吹部(踏鞴製鉄を担当した部民)、(3)火吹部(湯に関する下級官職)と見る三説が併存するものの、何れも課題が有るようです。「日本の神々 大和」で大和岩雄氏は、前川明久氏、谷川健一氏が息吹き部の意味で製鉄・製銅関係の部と推論した説を紹介されていますが、「日本古代氏族事典」は伊福部と製鉄関係遺跡の関係はまだ確認されていないとします。

 

 

大和氏は上記の書の中で、「姓氏録」の尾張連が火明命之男天賀吾山(香語山)命の後とあり、さらに伊福部宿祢だけに゛尾張連同祖゛とあることに留意されます。一方で天武天皇十三年に宿祢となった尾張国造の尾張宿祢(元は連)の系譜には火明命しか触れられないので系統が異なり、尾張連系だけが天賀吾山に固執するのは、この尾張氏が鍛治に関わるからだと考えられます。「先代旧事本紀」天孫本紀では、天香語山命の孫の瀛津世襲命を"亦葛木津彦命と云ふ。尾張連等祖゛と書いていて、奈良の葛城の尾張氏は「日本書紀」に゛高尾張邑に、赤銅の八十梟帥あり゛とされるので、つまり「姓氏録」の天賀吾山命を祖とする尾張連は葛木津彦命の後といえる、とします。ということで、伊福部宿祢も製鉄・製銅に関わる、となるのです。

 

さらに、「大同類聚方」には、奈良の鏡作坐天照御魂神社の神職は水主直で、この家に伝わる「阿可理薬」の元祖は天香語山命であると書きます。「阿可理薬」の名は、始祖の火明(ほあかり)命からとったものとみられます。以上見てきますと、下記に紹介します当社近くで見つかった仿製青銅鏡の存在が気になってきます。

 

 

 

【鎮座地、発掘遺跡】

当社の実際の創祇の時期は不明ですが、ご由緒にある通り、当社の創祇の地は背後にある的場山の山頂付近だと考えられ、今もその中腹には天津津祀神社が奥社として鎮座し祭祀が続けられているそうです。また当社が一時鎮座していたという、現在の古宮神社境内には磐座祭祀を思わせる巨岩があり、先の糸田氏は注連縄が張られていたと書かれています。当社のある揖保川の西側地域は的場山の支脈、鶏籠山と白鷺山の間の扇状地にあって、小京都とも呼ばれる古い城下町地区で落ち着いた街並みが残っています。その白鷺山の南斜面にある当社の境内地では弥生式土器が発掘されたり、当社隣の龍野高校の場所には、前方後円墳の西宮山古墳(6世紀前半~中葉)や、狐塚古墳などの古墳が広がり、この辺り一帯は古代から祭祀場と見ることが出来ると糸田氏は書かれています。

 

 

また、たつの市のホームページによると、こちらも当社隣の赤とんぼ荘の建設時に、箱型石棺と漢代中国製の内行花文鏡の一部が見つかり、たつの市は3世紀半ばの墓(※石棺が現れるのは一般には4世紀からとされますが…)だとしています。この地ではもう一つの箱型石棺も発掘されていて、そちらの中からは(少し出来が良くない)日本製(仿製)の鏡が見つかりました。これら全体からすると、弥生時代あたりから連綿と祭祀活動が続いてきた地である事が感じられます。糸田氏は、西宮山古墳に伊福部氏との関係を考えられるとともに、当社の各遷座地三社がいずれも傍らに清水が湧いていることに着目され、当地で天照国照彦火明命がかなり古い段階から湧泉信仰と結びついていた事を物語ると見ておられました。

 

 

【中世以降歴史】

応永の乱(1399年)や嘉吉の乱(1441年)で兵火にかかり焼失しましたが、その後に上記した現在の古宮神社のある小神の地に遷座しました。その頃は播磨の守護職赤松氏の崇敬を受けましたが、1471年にも社殿が炎上したことで、現在地の広い神域を拓いて遷座しました。しかし、2年後にまた社殿が炎上したので古宮の地に還り、1581年に再び現在地に遷ります。何とも激しい移動があったようです。

 

 

1585年の福島正則が龍野城主の時には、福島氏の氏神である熊野権現を正面に祀って三社大権現と称するようになりました。それが、1587年に福島正則が伊予国に国替えになって熊野権現を新任地に遷した後は、天照大神を中央にして八幡社と春日社を相殿に祀った三社託宣形式をとり、粒坐天照神社自体は末社として祀られるようになったのです。

 

 

1672年、脇坂氏が龍野城主になって以降は、城主や氏子の崇敬が篤く、境内の整備・拡張が行われ、現在みられるように境内末社も数多く勧請・合祀されていきました。こうして明治の世を迎え、明治7年に旧い体系に戻す流れの中で、粒坐天照神社を本殿の戻し郷社に列することになり、社号も復旧しました。明治15年には県社に昇格しています。昭和24年に旧龍野中学の火災の影響で本殿を焼失。昭和37年に再建されています。

 

絵馬殿の内部。奥側正面の大きい額が10代脇坂安箽公の奉納額。1786年

 

【所蔵神宝】

拝殿前に絵馬殿がありますが、他では見た事の無いほどのおびただしい数の奉納絵馬があり、圧倒される光景です。糸田氏によると、藩主寄進の絵馬や武術絵馬が多く、江戸時代のものが多いようです。特に当社は、脇坂家9代安親公から12代安斐公のかけての代々城主による大奉納額が目を引くといいます。また石燈籠や玉垣も江戸時代の年号のものが多数で、脇坂家の飛び地を示す作州(岡山の美作のこと)の文字や、京都や大阪の商家の名前を刻んだものもあるそうで、当時の龍野藩の政治領域や通称範囲、そして信仰範囲が分かります。

 

なかなか広く石垣が堂々とした境内

 

【伝承】

文献資料やご由緒からは、伊福部氏がいつごろからこの地に居たのかは不明というしかありませんが、弥生時代から続く祭祀遺跡や発掘資料を見ると、この地に連綿と勢力を持ち続けた人々による祭祀の場が当社となっていったと考えたくなります。さらに、ヤマト王権以前の勢力と考えたい出雲王国の時代から存在したかもしれない「イイボ」地名の人たちが、摂津三島の新屋坐天照御魂神社疣水神社を祀った人たちと何らかの絆を持っていたと期待したいです。その新屋社の方で想定されている祭祀氏族も、尾張氏系の丹比新屋氏になります。そしてこれらの人々は上記したような古い時代から近畿地方に居て大和と関りを持っていた可能性を、各種古文書の記載から感じたいものです。

 

門前の街並み

 

(参考文献:粒坐天照神社パンフレット、たつの市観光協会公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 山陽・四国/大和/摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 丹比神社(堺市美原区多治井... | トップ |   
最新の画像もっと見る

兵庫・西摂津・播磨」カテゴリの最新記事