摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

江島神社(藤沢市江の島)~観光名所の龍宮城に現代も伝わる古朴な民族信仰

2023年04月22日 | 関東

 

島全体が信仰の対象となって、今も多くの観光客でにぎわう超有名観光地の江ノ島。最近「ブラタモリ」で取り上げられた事もあり、弁財天をお祀りしているとの話だったので御由緒を確認してみたら、なるほど宗像三女神をお祀りしている、要は「宗像神社」だったのだろうとの思いになり参拝してみたいと思いました。丁度神奈川県に住む知人が、地域でボランディアガイドをしていて江島神社もテリトリーだということで、同行をお願いし一緒に訪問させていただきました。

 

江の島弁天橋からの江ノ島全景

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、奥津宮に多紀理比賣命(タギリヒメノミコト)、中津宮に市寸島比賣命(イチキシマヒメノミコト)、そして辺津宮に田寸津比賣命(タギツヒメノミコト)が祀られています。言うまでもなく、宗像三女神です。各宮とご祭神の関係は、記紀にも明記されるのですが、「日本書紀」の本文と各一書でも様々なパターンがあり、さらに「古事記」でも異なります。当社は「古事記」の記載の通り(漢字表記は少し違うよう)になっています。ちなみに、北九州の宗像大社では、沖津宮に田心姫(=タギリヒメ)神、中津宮の湍津姫神、辺津宮の市杵島姫神がそれぞれ祀られています。

 

青銅の鳥居。元々の三の鳥居で、他の二つは残ってなく、見出し写真の朱の鳥居は昭和11年再建

瑞心門。龍宮城を模した楼門

 

「江島縁起」による当社が語る創建のご由緒は、欽明天皇13年(552年)に大地が震動し、天女が十五童子を従えて現れ、江の島を造ったと説明されます。そしてこの事を社伝では、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(御窟おんいわや・現在の岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社のはじまりであると伝えているという事です。その当社の礼拝対象となっている海食洞窟は、奥津宮の下の斜面に三つの洞窟を持ち、特に西の竜窟の岩屋が最も大規模で、入口から100メートルほどの所に弘法大師を祀っています。そして、島全体は大日如来に、窟内は両界曼荼羅の世界に見立てられてるのです。

 

辺津宮

 

「日本の神々 関東」で三輪修三氏は、このような仏教的解釈は後代の付説であって、竜窟はより古朴な民族信仰を根底としていると述べられています。自然の造形によって生まれた岩窟は、女性の胎内、或いは性のかたどりであり、そこへ波が流入することによって神が宿り、その顕現を見るのであって、これは、ニライカナイすなわち海の彼方の常世の国から蛇ないし火によって神霊が島の岩屋へ渡来し、そこでの籠りをへて神が誕生するという沖縄の祭祀形態と軸を一にするものだということです。

 

奉安殿。八臂弁財天と裸弁財天・妙音弁財天が有名

 

【多くの著名人の参籠伝説と仏教習合】

「太平記」巻五に、北条時政が江島に参籠し、子孫の繁栄を祈ったところ、二十一日目に女性が現われ、繁栄を約束。やがて二十丈ばかりの大蛇になって海中に没しました。そのとき大きなうろこを三つ落としたので、これを神の証しとして、北条氏の家紋にしたと伝わります。三輪氏は、大蛇は神霊のかたしろであり、これが窟内に入る事で神ないし子孫の誕生が約束されるのだ、と書かれています。

 

中津宮

 

「江島神社縁起」には、役小角、弘法大師、慈覚大師らの来島と参籠を伝え、「吾妻鏡」養和二年(1182年)には、文覚上人による三十七日の断食参籠のことが記されます。この養和二年の件については、源頼朝が奥州の藤原秀衝を調伏するために大弁財天を奉請供養させたものと考えられていますが、三輪氏は頼朝が奥州藤原氏を征したのは八年後のこととして疑問とされます。そして、これは岩屋とそこでの神の顕現という江島に固有の信仰モチーフを、仏教における湖水の司祭者であり女神でもある弁財天への信仰に習合させるという新たな展開を、文覚という高僧をわざわざ京都から招請してティピカルに示したものだと解されていました。つまり、江の島に弁財天という仏教信仰が入るのは、おおよそ鎌倉時代からだと思われるという事です。

 

1182年に源頼朝が奉納したとされる鳥居が奥津宮入口にあります

 

【中世以降歴史】

江島は耕作できる土地が乏しく、平民が定住が困難な島で、島民は司祭者か漂泊的な漁労民でした。神のみあれの斎場である江島は、世俗の空間から切り離されたサンクチュアリでしたが、その聖性は中世を通じて次第に明確な姿をあらわしていったと、三輪氏は述べられます。このような世俗と縁の切れた空間は「公界(くがい)」と称され、そこへ入る人は世俗との利害から解放され、科人であっても誅罰を保留されたのです。

 

奥津宮拝殿

奥津宮本殿

 

中世後期に、諸国の守護大名、戦国大名などは、特定の寺院をその祈願所と定め、そのうえで寺院のもつ公界性を認める場合がありました。1561年、北条康成が、゛江嶋坊住之儀は、公界所之事候間云々゛という文章を発給しており、戦国期にも公界所である事を確認し戦乱時における平和領域であることを保証しています。江島へ移る事は、一時的に公界の場へ身を寄せ、敵味方の立場から解放されることであり、またこの地の漁民の自治と検断権を認め、無縁性を表したでもあったのです。

 

龍宮。岩屋本宮の真上に、1993年に建立

 

【近世以降の隆盛】

上記のような聖域としての扱いは、近世にはいり徳川幕府によって否定されますが、島の持つ聖性とその無縁性は、なお人々の間にあり、潜在的なかたちで継承されたようです。公界とはある一つの場所であるとともに、そこの依存する無縁の人々も指すのですが、これはつまり漂泊の宗教者、回遊する漁民、旅芸人、職人が相当します。近世における江島信仰史において、公界の場に身を置くことによってのみ生を全うしえた芸能民が詣でている事実に、三輪氏は注目されます。

 

岩屋の入口

 

島内には江戸の中村座、市村座、小道具屋から奉納された石燈籠が残され、初代広重の描く錦絵「相州江之島弁才天開帳参詣群集之図」「弁才天開帳参詣本宮岩屋の図」は、日傘に同一衣装で参詣する女講中をテーマにしています。日傘に見える紋所は、三本杵をあらわす江戸長唄の杵屋、菱に三つ柏の清元、角木瓜の常磐津、桜草の紋の宮本節であり、いずれも江戸方面の芸能者集団だと見ることができるのです。芸能民は近世になって次第に定住化してきましたが、その舞台はまさに無縁の場そのものであり、江島とのかかわりは無縁の縁にほからならず。「弁財天即音曲の守護神」という公式では見落としかねない江島信仰の特有な性格がそこにあると、三輪氏はまとめられていました。

 

第一岩屋の道中

第一岩屋の最奥、江の島弁財天信仰の発祥の地。ここが「参籠」の地

 

【伝承】

ボランディアガイドの知人の理解も、上記した説明にもあるように、やはり弁天様の信仰を起点として江ノ島や当社を捉えていて、古代の創建のこととか、「宗像」との関係などという話はしないようでした。この地は、出雲伝承を語る大元出版のある地でもあるようですが、そのような伝承はやはりまだまだ一般には語られないようです。それでも、三輪修三氏の書かれたような古朴な民族信仰に端を発するという専門家の見解も存在しますので、出雲伝承の語る縄文~弥生時代からの生命誕生への祈りや信仰が、その発端の部分が忘れられて今に伝わるのだろうと想像しておきたいと思います。

 

第ニ岩屋奥にある龍像

 

「新撰姓氏録」には、゛宗形君は大国主命六世孫吾田片隅命の子孫゛と書かれますが、「出雲と大和のあけぼの」で斎木雲州氏は、大国主命の処は旧出雲王国主王の役職名である「大穴持」に読み替えるべきで、その六代目の臣津野(オミツヌ、国引き神話の御方)から分かれた分家吾田片隅命の子孫が宗像氏だと説明されています。そしてこの御方が三姉妹を育てたと書かれていました。

東京滞在中の関東地域の神社参拝は、当社が最後となりました。他にも、千葉県にある忌部氏の安房神社、茨城県の建葉槌を祀る静神社などの古いとされる神社、そして宇佐家古伝が御諸別命が葬られたという栃木県宇都宮市の二荒山神社などなど参拝したかったのですが、いざ東京から行くとしてもかなり遠く、またの機会を見つけたいと思います。なお、全くの蛇足ですが、新宿の紀伊国屋書店で、大元出版の(下記にもいつも記している)「出雲と蘇我王国」と「出雲王国とヤマト王権」が、歴史コーナーに平積みされていたのには、少し驚きました。

 

江ノ電

 

(参考文献:江島神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 関東」、三浦正幸「神社の本殿」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等大元版書籍


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