引き続き出雲大社について。前回は、ご祭神の大国主命と出雲国造の関係や、本殿の神坐西面についてふれましたが、今回は中世以降の運営や、主な祭祀の話題をまとめたいと思います。
【出雲御師】
律令制が乱れて荘園が乱立する時代になってからは、出雲大社も墾田の開発に努めるようになり、おもに出雲郡の神戸を足掛かりに社領を増やしていきます。1256年の「社領注進書」によると計14郷にわたっており、”大社領十二郷”と呼ばれます。その他七つの浦も支配しました。ところが、天正年間1591年の朝鮮の役に備える軍役の為と称し、一挙に五郷二浦に削減されます。この対応策として打ち出されたのが、御師による布教活動です。御師の活動は、1558年の「尼子経久書状」などで窺えるので、遅くとも戦国末には始まっていたと考えられますが、活発になったのは上記の天正の社領削減がきっかけです。
・本殿前の八足門。赤い円が宇豆柱発掘部
御師に出ていくのは概ね中官級の神主で、一行5,6人くらいで、それぞれ決まった゛檀場゛に、毎年秋に出て春に戻りました。近世の終わりごろには、江戸以西日向に至る27~8か国に及んだようです。御師がする事は、配礼、祈祷、神道講話等ですが、行く先々で信者を獲得し、講社が結成されれば本社への団体参拝を勧誘し、その参拝者を自宅に招き宿泊させたのです。明治時代になり、神社制度が改正されると、御師の慣行も廃止されましたが、御師達は新制度の元で大社職員になる人もいれば、本格的な旅館業に転進した人も少なくなかったとか。そんな中で、大社信仰布教の為、全国に分院・分教会がたちまちにしてできたのは、永年の御師活動の基盤があったからだ、と谷川健一氏編「日本の神々 山陰」で石塚尊俊氏が書かれています。
・八足門前
【国造家分裂】
国造家はそもそも一家でしたが、54代孝時国造が病死した後、一期限りで所職を譲られていた三郎清孝国造が、1343年その職を五郎孝宗に譲りました。しかしこれに対して六郎貞孝は、既に父存命の1335年に清孝のあとは自分だとの譲状を受けていると認めません。清孝国造はその1343年に死去し、ここに孝宗流の千家家と貞孝流の北島家に分裂。公にも認められ、大社の祭事も奇数月が千家、偶数月が北島の分担となります。国造家が二分して、上官以下の神主・社人も両家に分属。1423年の「社頭向両国造定」によれば職員総数は93人でしたが、1833年「出雲神社巡拝記」では392人に及んでいた事が記されています。
・本殿東の東十九社
【近世以降】
1609年の境内図(北島家蔵)には、国造の屋敷が、西側と本殿の真後ろに描かれています。西側が古来で千家国造館、社殿背後が北島国造館ですが、この北島家邸が寛文(1661~1673年)の造営にあたって境内地拡張の為に社殿の東に移り、現況のとおりになります。1871年、出雲大社が官幣大社になると、神職は国家が任命する事になりました。そして千家尊福が任命され、北島全孝は出雲大社教会を設立するのです。
・本殿を北東側から
【身逃げ神事などの祭祀】
出雲大社の大きな神事は、5月の例祭(三月会)、6月の清殿祭、8月の神幸祭(身逃げ神事)、陰暦10月(今年は11月25日から)の神在祭、そして11月の古伝新嘗祭です。なかでも不思議な祭祀が8月の「神幸祭・身逃げ神事」でしょう。石塚氏も”今となっては元の意義がわかりにくい”と書かれています。
・裏にもうさぎがいます
その神事次第です。深夜一時、鳥帽子、狩衣に身を正した禰宜(本来別火職だった)が足半を履き、青竹をつき、御供を入れた真薦マコモの苞ツトと火縄とをもってまず本殿に参進し、祝詞を奏して神門を出、摂社の湊社と赤人社に詣でて白幣と洗米を捧げ、次いで稲佐の浜の塩搔島に至り、四方を拝して塩を播き、本殿に帰参します。その姿を見ると目がつぶれるといって、町の人もその夜は出歩かなかったそうです。
・稲佐の浜と弁天島。塩搔島は浜の北端で遠かったです・・・
そして、その神幸が出発してから帰るまでの間、国造は館を出て他家に身を移すという決まりが有るのです。今ではその時間だけ旧中家の家ですごし、終われば館に帰るようですが、一方を大神の神幸と言いながら司祭者の国造が他家に身を隠してしまうのは、”まことに不思議な慣行”と、石塚氏は陰陽道と結びつける諸説にも釈然としない考えを呈されています。
・神楽殿
当社が縁結びの神様と言われるようになったのはいつからなのかは明らかでありませんが、近世中葉には西鶴の「世間胸算用」に”出雲は仲人の神”の言葉があります。10月に諸国の神々が出雲に参集する事も、かなり古くから文献に見えていて、平安末の藤原清輔の「奧儀抄」には”十月天下のもろもろの神出雲の国に行き”とありますが、どこまで遡る伝承かはあきらかではない、と石塚氏は書いておられます。
(参考文献:谷川健一氏編「日本の神々 山陰」)
・神楽殿の太い注連縄
【伝承】
現在も神殿の東にある北島国造館を、上記のとおり本殿後ろから移したのは、千家国造の希望だったと、東出雲伝承を語る「出雲と蘇我王国」に書かれています。広い正殿式本殿に立て替える事でそれを果たそうとしました。そして背後の残った場所に素鵞社を建てました。
・素鵞社
同書では、”杵築大社内に先住系と渡来系の神が混在しているように、神職も敵対した家々の子孫達が共存していた奇妙な神社であった”、と書かれています。国造身逃げ神事は、その先住系の為の神事だといいます。それは、穂日命が出雲へ海降った直後に起こした事件に関係した神事で、だから国造は隠れるらしいです。そしてこの事件をきっかけに、東出雲王国富氏では后の三島溝咋姫と共に分家登美氏の天奇日方命ら一団が摂津三島へ移住。さらに大和まで至り、つまりは本格的な大和の始まりに繋がったそうです。
・宇豆柱。古代出雲歴史博物館で
「古事記の編集室」には、7世紀始め、現在の意宇の杜にあった屋敷に住んでいた人から、向(富)氏の当主が呼ばれた時の話が載っています。その御方は山辺赤人と名乗り、古事記と日本書紀は自分達が書いたこと、そして、出雲王国が神話化されてしまった中、「古事記」に17代の出雲王の名前を明記させたのは自分だと話していたそうです。そして、その少し後に赤人神社が建った事も書かれています。「出雲と蘇我王国」では、向氏が山辺赤人神社を建てた、と書かれていました。