斐伊川に合流する赤川の南岸に鎮座するこじんまりしたお社と、その隣に移築された山陰地方ではきわめてめずらしい竪穴式石積石室を持つ、4世紀中頃の古墳です。昭和47年からの赤川拡張工事で神社を旧鎮座地から少し移築する必要となり、その旧本殿の下の古墳を調査したところ、上記石室が発見されたのです。そして、全国で2番目となる、景初3年銘(卑弥呼が銅鏡100枚を下賜された年)の三角縁神獣鏡の発掘で、全国的にも貴重な遺跡となりました。
・一の鳥居。赤川の反対側です
【ご由緒・ご祭神】
「出雲国風土記」に既に”神原社”として存在し、「延喜式」神名帳にも載る式内社です。地名の由来について風土記には、”古老の伝えでは、所造天下大神(大国主命=大穴持命)が神宝を積んでおかれた所である。だから神財(かんだから)郷と言うべきを今の人は誤って神原郷と言うだけである”と記されています。社伝では、当社はこの郷の神庫だったとしています。この記述から、「日本書紀」崇神紀、垂仁紀の”出雲国の神宝”のことではないか、とする説があったそうですが、一般には別のものと理解されています。
・二の鳥居と神門
ご祭神は、大国主命、磐筒男命、磐筒女命。社伝では、往古は赤川の北岸に鎮座していましたが、”低地であったため”いつのころからか対岸の古墳の上に遷されたとされています。近年の調査によると、赤川の川床は弥生時代以降で10メートル前後上昇したと考えられる事から赤川は元々谷川のような川で、神社はその河岸段丘上に鎮座していたと見られます。
・拝殿
・本殿
【神原神社古墳の発掘状況】
神社の記録によると、慶長年間以来たびたび社殿の増改築が行われており、最近では昭和初年に墳頂部を削平して本殿の改築がなされており、その時深さ1mあまりの処で石室の蓋石につきあたる、という事もあったようです。発掘の結果、南北27~30m、東西22~26m、高さ6.9mの方墳である事が判明しました。石室の四壁は近傍で産出する扁平な板状石を持ち送り式に小口積して造られており、そこには割竹形木棺が据えられていたと推定されています。墓壙の東壁下部では赤色顔料の付着した土師器の壺5個を納めた埋納壙も発見されています。
・神原神社古墳の移設施設
副葬品の方では、三角縁神獣鏡の面径は23cmで中国製とされています。鉄製品も多く、素環頭太刀1、木装太刀1、剣1、槍1、鉄鏃36。農工具も検出されており、鉄製品の多数の副葬は、この古墳の被葬者の性格を考えるうえで重要だとされています。
・復元された石室
【伝承の語る神原神社古墳の被葬者】
東出雲王国伝承では、この古墳は、武内宿祢の墓であり、伝承の主張する史実としては、3世紀の”邪馬台国の時代”の人だったと云います。元々は九州東征勢力側にいて帯方郡まで行きましたが、その後大和側に寝返ります。九州勢力の東征後は追われる身となり、最後に旧東出雲王家の富氏にかくまわれて生涯を終えたそうです。一般的な理解からは、「!?」という話ですが、この話を前提とすると、北陸蘇我臣氏系譜を記載した古文書のつじつまが合ってきたりもします。
・掲示されている発掘当時の写真。石室が現われた時
【因幡国宇部神社の武内宿祢ご由緒】
話は飛びますが、因幡国一之宮の宇部神社のご祭神は武内宿祢です。これは、「因幡国風土記」に、仁徳天皇の時期、”武内宿祢が因幡国に下向し、亀金に双の靴を残し、行方知れずになった。宇部山に入った後、どこで亡くなったかわからない”、と記されている処からきたようです。ただ、この風土記の記事は鎌倉初期以前に遡れないので、古代風土記の記事としては怪しいと考えられています。また、神社の宮司伊福部氏が746年に残した家系図「因幡国伊福部古志」には、第十四代武牟口(たけむくち)命の名があり、「因幡誌」(1795年)はこの御方を武内宿祢と読み違えたのでは、と疑問を呈しています。さらに佐伯有清氏も、「古志」には後人の手で武牟口命を武内宿祢にするべく加筆工作した跡があると述べています。つまり既に研究者の間では、宇部神社の祭神武内宿祢は後世の作為による、と見解を出されてるようです。
(参考文献:雲南市教育委員会 神原神社古墳パンフレット、谷川健一氏編「日本の神々 山陰」)
【伝承の語る因幡国の武内宿祢】
それでも東出雲伝承は、(仁徳天皇期ではなく、)3世紀に実在した武内宿祢は、元大和勢力の王、彦多都彦(彦道宇斯)命を九州勢力から守る為、まず因幡の宇部までお伴して住んだ、と云います。そこに、九州から来た新たな大和の王が武内宿祢を暗殺する計画を立てる知らせが入り、慌てて西に逃げました。そして、連合していた出雲王国の富氏を頼ったのです。武内の為に、現在の松江市八幡町に家を建て、後妻も与えたと云います。最後はその地で亡くなり、住居跡に今は武内神社が鎮座しています。ご祭神は武内宿祢ですが、公式のご由緒は、その長寿のご神徳の為、程度の説明になっています。
・武内神社境内の灯篭の「武」の紋章
【伝承と調査結果の齟齬】
神原に古墳を作ったのは弟の甘美内宿祢だったそうです。武内宿祢の墓であれば、発掘成果による4世紀築造時期とは合わなさそうですが、亡くなってから年月が経って築造されたという事でしょうか。また、三角縁神獣鏡は大和で呉から亡命した工人に作らせたもので、自分で持ってきた物だと主張します。ただ、少し納得できない説明もあり、その伝承への疑問を、高槻市の安満宮山古墳の記事の後半に記載しました。
因幡国風土記に記された、武内宿祢の行方知れずの話が興味深いです。それを否定する論考にも興味が有り留意すべきと思いますが、出雲伝承側はどう捉えられているのでしょうか。本当に行方が分からなくなり、中央政府も暗殺計画の事などとても公にできない中、出雲に隠密に武内宿祢の存在が伝承されていたという事なのでしょうか。武内宿祢の多くの子孫と旧出雲王家との関係は、その後の歴史にも影響しているとの事ですから・・・
・赤川方面。
やはり古事記神話の謎は天皇礼賛だけではないいびつな構造をしているある種の正直さが心惹かれるのでしょう。
古事記神話の構造をザックリいうと高天原の2度の地上への介入がその構造の中心となっている。1度目はイザナギとイザナミがオノゴロ島を作り、国生み神生みを行い、次にイザナミのあとを継ぎスサノオが
根之堅洲国で帝王となる。第二の高天原の介入はアマテラスによる九州への天皇の始祖の派遣とそれに続く天皇を擁する日本の話でこれは今も続いている。
これらの2度の高天原の介入に挟まれた形で出雲神話がある。天皇の権威を高めるのに出雲があまり役に立たないのに古事記で大きく取り上げられている。その神話の構造の歪さに我々は心を惹かれる。
たとえば天皇も大国主も大刀(レガリア)の出どころはスサノオでありその権威の根源を知りたくなってしまう。そうなると島根県安来市あたりの観光をしてしまいたくなる。