出雲国巡り紀行、これで最終回となります。古社の3回目。松江市の東に行って後、雲南市に寄って、最後出雲空港に戻りました。
・阿太加夜(アダカヤ)神社
少し見つけるのに苦労した、住宅街にひっそりたたずむ神社。祭神は出雲国風土記にも登場する、阿陀加夜奴志多岐喜比賣(あだかやぬしたききひめ)命と、ご由緒にあります。大国主命の御子で、出雲郷(あだかえ)の守護神です。松江城の稲荷神社との間で10年毎に行われる伝統行事ホーランエンヤで知られており、日本三大船神事のひとつとまで言われています。
境内には「有」の社紋をもつ灯篭がありました。これは神魂神社の神紋でもあり、そちらのご由緒書に記載されてる説明によると。毎年10月は全国から神様が出雲に集まる、出雲の「神在」月。「十月」を上下に並べて、十の縦線下部を左に傾ければ、「有」になりました、という事らしいです。
東出雲王国伝承によると、この祭神の説明は出雲国風土記の誤りをそのまま踏襲してしまったものであり、正しくは大国主命の妃である宗像三女神の多伎津(タキツ)姫。つまり、この御方は西出雲王国に嫁がれたが、夫を失って後、東出雲王国のこの地に嫁がれていた田心(タコリ)姫を頼って移り住みました。後に田心姫は、現在の宗形神社のある地に移られ、そのまま残った多伎津姫がここでアダカヤ主となり、死後祀られたそうです。
藁で竜を作り、木に巻き付けて拝んでいるそうです。その木は神木とされ、斎(サイ)の木と呼ばれます。
・武内神社
平濱八幡宮の境内社という扱い。でも武内神社目的で訪れました。まず、八幡宮の方のご由緒は、1111年に太政官の命を受けて、遷宮の日時を
占った事が石清水文章に記載されており、石清水八幡宮の別宮として、出雲国最古の八幡宮となった、とあります。祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神宮皇后。皆様、武内宿祢にからむ大王クラスですね。
本命の武内神社の方は、公式パンフレットにご由緒の説明はなく、祭神は武内宿祢命であり、記紀の記述により長寿であられた事から、寿命長寿などありとあらゆる御利益で崇敬されていて、熱烈な信仰者が多数おられるそうです。この2社は、出雲国神仏霊場第13番として親しまれています。
出雲伝承では、真の武内宿祢は3世紀中ごろ、いわゆる邪馬台国の時代に、実在した人としています。帯方郡まで赴き、九州の日向王国から近畿のヤマトへと時代を駆け巡った人。最後は"勝者"からまつろわぬ者とされ、"敗戦"後の東出雲王家にかくまわれて生涯を終えたらしいです。武内神社は、その最後に住んだ地として祀られた社だと説明されます。彼の多くの子孫からは、その後の古代史を動かす多くの王や役人を輩出したとのこと。
サイの神。
やる気だるま
・神原神社、神原神社古墳
〇神原神社、神原神社古墳について情報を追加して新たに記事を投稿しました
雲南市の赤川沿いにある、一見こじんまりしたお社ですが、出雲国風土記や延喜式神名帳にも登場する由緒ある神社。主祭神は大国主命。もともと現在の赤川の堤防付近にありましたが、昭和47年に堤防造営工事の為の事前発掘調査で、竪穴式石室をもつ前期古墳の大発見が有りました。有名な、景初三年銘の三角縁神獣鏡の発見です。大阪の黄金塚古墳に続いて2例目でした。
石室は神社共々、現在の堤防の横に移設され、吹き抜け式の保護棟で守られる形で鎮座しています。その天井内側の縁には、発見時の写真も掲示されていました。
建物は旧拝殿で、石室の見えている上に旧本殿があった
出雲伝承では、ここが武内宿祢の古墳であるとしています。彼がヤマトにいたときに、呉から亡命して来てた職人に青銅鏡を作らせ、近畿連合に配布していたのです。そして自身用にも、帯方郡まで行った記念に景初三年銘入りを造らせて所有していた、と説明されています。
最後に、時間が出来たので出雲市に戻り鼻高山を遥拝しました。この山はサルタ彦が宿る神奈備山といいます。広々とした田畑共々美しかったです。
残念ながら一畑電車には乗れずじまい。また出雲行きたいです。