(出雲御師や国造家分裂、国造身逃げ神事などについては、続編2にまとめています)
出雲といえば、とにかくこの神社。この大社を参拝する為に出雲に行くという、山陰を代表する観光地ですね。出雲に旅した時も一番にこの神社に参拝しました。今は大社は幾つも有りますが、明治から戦前にかけてはこの神社だけ。あえて説明するまでもない、誰もがよく知る神社ですが、やはりきっちり押さえたいです。
・神門通りと大鳥居
【神社の名称】
この神社の名称は、「出雲国風土記」や「延喜式」では杵築大社。その名については、「風土記」に”諸の皇神等、宮処に集り集いて杵築たまう。故、寸付(キツキ)という”と説明されています。歴史的には一貫してこの呼び名だとされていますが、古典や謡曲、狂言では”出雲の大社”という言い方もあるので、他国から呼ぶ際は出雲大社の場合もあったと、谷川健一氏編「日本の神々 山陰」で、石塚尊俊氏は考えられています。出雲大社が正式名称になったのは、明治5年の太政官符達以降です。
・下る松の参道
一方、「日本書紀」や「出雲国風土記」楯縫郡の条には、”天日隅宮”、”天日栖宮”という表現がありますが、これは神話上の美称であり、実際そう呼ばれていたかは分からない、と石塚氏は述べています。一方、同書での大和岩雄氏の論考では、これをヒは”霊”、スミは”住み”として、大己貴命の霊が住む宮の意との説があるが、ヒは”日”と思われ、隅は文字通り片隅のスミであり、日の没する西の隅の宮の意もあるとします。そして、その対極、日の登る東の”傍”国に鎮座するのが伊勢神宮。隅と傍は同じ意味です。こうして大和を中心に、それぞれに大国主命と天照大神という神を配した、と説明されます。
【鎮座経緯と出雲国造】
石塚氏によると、出雲国風土記の時代の出雲平野は、風土記から想像されるように土地は出来てなく、西流していた斐伊川の河川敷や湖沼の状態で、大社周りの条件は悪かった事がわかっています。なぜそんな悪い場所に杵築大社を設けたのか?石塚氏は、そもそも大国主命は出雲国造出雲臣の祖神ではなく、また国造は元々この地にいたのでもなく、東方の意宇の地を本貫とする氏族だった、とします。これは同風土記末尾の編者広嶋国造の、”国造にして意宇郡の大領を帯びたる”の署名と、さらに少領以下の5名の郡司のうち3名までが出雲臣である事から、国造の本貫が意宇地域だと考えられているのです。
・”海を照らして依り来る幸魂奇魂”の像
そして石塚氏は、この出雲臣を名乗る出雲国造が、記紀の”国譲り”神話(そこに登場する天穂日命は国造家の始祖)の如くに、大穴持命を祖神と仰ぐ斐伊川町西南隅・仏径山の北麓を拠点として今日でいう出雲全域を勢力下に納めていた「プレ出雲氏」というべき氏族を、大和朝廷に協力する形で圧倒して乗り込んできた、と考えられました。そうなると、大穴持命は先住民の神になるわけで、その祟りを恐れて鄭重には祀るものの、なるべく遠くに祀る、という形になったのではないか、という話です。その後も杵築大社は格別に扱われるものの、出雲国内の扱いは常に意宇の熊野大社の次でした。「出雲国風土記」しかり、出雲国造神賀詞や「三代実録」の神階神勲の授与でも、常に杵築大社が後だったのです。
・銅鳥居
【ご祭神の変遷】
北島国造家に伝わる「出雲国造世系譜」は出雲国造が西遷した時期を、果安国造の時の715~717年の時期と書いていますが、石塚氏は798年に布達された郡領兼帯禁止の太政官符以降と見ます。そして杵築大社に対する姿勢にも変化が現われ、それが祭神の素戔嗚命への変更に繋がります。意宇地域にいた時にも、弱りゆく政治的立場を補強せんと、熊野大社の祭神を記紀が重視する素戔嗚命に変えますが、杵築大社に移ってからも新たな我が神社を天津神に押し上げようと、祭神を素戔嗚命に変えた、と石塚氏は説明されています。確かに平安初期成立の「先代旧事本記」では、熊野、杵築両大社とも素戔嗚命です。
以後、中世や近世(「本朝神社考」「神社啓蒙」)の文献でも、祭神は素戔嗚命になっています。有名なのは、今も残る1666年の銅鳥居に陰刻された”素戔嗚命者雲陽大社神也”の銘文です。それが大己貴命になるのは近世もかなり下がってからで、1679年に最初の記述が見えるようです。
・拝殿
【西を向く神座】
出雲大社の本殿の神座は西を向いている事は有名ですが、これについて大和岩雄氏が論考されています。大概の神社は建物共々神座は南を向きます。一方、東出雲の神魂神社や和歌山県の日前神宮、茨城県の鹿島神宮では、東を向いています。まず、一般の神社の神殿が南面するのは、子午線を聖なるラインとみなす中国思想の影響だといいます。そして北を神聖方向とし、”太一””大極””北極”と呼び、神聖な北を南から拝する為に南を向くのです。そもそも神社の神殿は寺院の影響で造られるようになったもので、霊魂をあたかも仏像のように常時礼拝する対象となって行ったことも関係するよう。
・拝殿を左に入り本殿へ
一方、わが国は日の出の方向の東が神聖な方向です。そして、本来霊魂は「ハレ」の日に訪れては神体に依り来て、そして去っていくものでした。だから日本的に神座を配置すれば、その依代は神の依り来る神聖方位の東を向くのです。これは古来の天皇の大嘗祭や、その前の加茂の河原での禊でも、天皇は東に向き、神様は東にいて西面している事と通じています(「大嘗会御禊紀」「延喜式」「江次第抄」)。それではなぜ、出雲大社の神座は西面なのか。大和氏は”記紀や風土記に明記されるように、最初から神の住居として造営された。したがって、その神座は神の住む場所として西面する事になり、「ハレ」の日にこの神と対面する依代(出雲国造)が東面する”と結論づけられていました。なお、伊勢神宮が内宮・外宮とも南面してるのは、天照大神を”太一”とする信仰がある(伊雑宮の御田植神事)ので、上記の一般的な南面になるとの話でした。これからの天皇の氏神なので、当時の新しい考え方に則った、という事になるのでしょうかね。
(参考文献:谷川健一氏編「日本の神々 山陰」)
・西側の摂社。奥から西十九社、宮向宿禰社、天穂日命社
【伝承】
石塚氏が現代において確認可能な資料を元に構築された論考は、一つの基準として押さえておくべきと思います。そこに、東出雲王国伝承が主張する、より複雑な構図が見られないのは無理もない事でしょう。つまり、伝承の大きな主張の一つ目、出雲先住民は西の出雲平野だけでなく東の意宇の地にも拠点があり、その2王家を中心とした出雲王国として存在したこと。そして二つ目は、出雲国造は3世紀の九州東征勢力による争乱の結果で力を付けたこと、などです。出雲臣は元々東出雲王家、富(向)氏の事でしたが、国造になってから富氏と婚姻関係を結んだので、国造家も使い始め、出雲臣が多くなったと説明されていました。これらは、大元出版本で改めて確認されるのが良いでしょう。
・本殿を西から
「出雲と蘇我王国」では、出雲大社は果安国造の希望・提案により、出雲国関係者が建てたとしています。そして、国造はもちろん、筆頭上官として経営にたずさわっていく旧東出雲王家の富(向)氏も716年に大社の近くに引っ越したらしいです。でも神魂神社の祭祀には出向くルールを旧王家側が決めたので、国造屋敷は意宇の大庭に残されたそうです。
「出雲と蘇我王国」では、平安時代に出雲大社の祭神が素戔嗚命になったという話は無かったように思います。ただ、確かに果安国造は素戔嗚命にしたかったが、出来なかった話が載っています。その事が、「先代旧事本記」に書かれたのでしょうかね?石塚氏の説明にもあった、毛利綱広から寄進された銅鳥居の額束に上記の文が書かれた時に、゛読んだ人が「杵築大社の祭神が素戔嗚命になった」と考えた゛という説明になっていました。