有名な玉造温泉街の中心部から少し南の、玉湯川の右岸に鎮座します。「出雲国風土記」の意宇郡の条に、”玉作山(花仙山)郡家の西南二十二里なり。社あり”と当社の記載があります。さらに同書では、この玉湯川の谷間と花仙山を隔てた忌部川の谷間の地域について、”忌部の神戸。郡家の正西二十一里二百六十歩なり。国造、神吉詞奏しに、朝廷に参向ふ時の御沐の忌玉作る。故忌部と云ふ。即ち、川の辺に湯を出す。(中略)故、俗人、神湯と曰ふなり”と、既に有名な温泉だった事が書かれています。また、社地や周辺には、玉作関係の遺跡が濃密に分布しています。
【ご祭神、ご由緒】
主祭神は、櫛明玉命と大己貴命、少名彦命。「出雲国風土記」の仁多郡三沢郷の神社名列記の条に、”玉作社”と”湯野社”の記載が有る事などから、当社は玉作神と湯神の二元信仰にもとずく神社だろう、と、谷川健一氏編「日本の神々 山陰」で原宏氏が書かれています。「古語拾遺」によると、”櫛明玉命は出雲国玉作の祖”で、”天富命をして、斎部の諸氏を率ゐて、種々の神宝、鏡・玉・矛・盾・木綿・麻等を作らしめたまひき”として、斎部(忌部)氏と出雲玉作の関係が記されています。
【出雲の玉作の歴史】
出雲の玉作遺跡の分布は、安来平野、意宇川下流平野、花仙山周辺地域、そして斐伊川流域の4地域に大別されますが、このうち3地域が意宇郡内にあり、なかでも碧玉、めのう、水晶の原石を産出する花仙山の周辺地域(忌部、史跡出雲玉作跡)が、四世紀後半から奈良・平安時代まで途切れなく続いている事が注目されます。この長さが出雲文化の特異性の一つです。
・階段の途中にある、神宝の収蔵庫
そもそもわが国の玉作研究の出発点となったのが、当社とその周辺の遺跡でした。明治初年、地域内から玉の半製品や玉磨砥石がしばしば発見される事に注目した当社社掌はその都度氏子に奉納してもらっていましたが、明治33年にこれがたまたま中央に紹介され、玉作研究が始まったのです。本格的な発掘は、昭和39年の後原・中島遺跡からでしたが、最終的にわが国でも最大規模の玉作遺跡である事が判明し、出土品は昭和51年建設の、出雲玉作資料館に収蔵・陳列されています。次の機会には、ぜひ見学したいですね。
・拝殿
【祭祀氏族、神階等】
「三代実録」によれば、871年に出雲国の湯神(当社)と佐陀神がともに正五位上から従四位下に昇格したようで、高い社格を誇っていたといえます。祭祀氏族は、忌部氏の配下にあった「忌部の神戸」で玉作に従事した玉作部の首長だろうと原氏は考えられています。玉作部に関しては、「日本書紀」の天武紀685年には、”玉祖連に姓を賜い宿禰と曰う”とあり、また「新撰姓氏録」には、”玉造連。高魂命孫天明玉命之後也””玉祖宿禰。高御牟須比乃命十三世孫大荒木命の後也”と書かれています。
・本殿。古式の大社造ですが、繁垂木や複雑な組み物は時代が下る様式です
【忌部神社】
「忌部の神戸」に含まれる忌部川の流域に、忌部神社があります。ご祭神は、天照大神、天太玉命、大穴牟遅命など二十五柱。実はこの神社は、明治44年の神社整理施行の時に、東忌部の大宮神社が村社久多美神社(式内社)と無社格の素鵞神社、七次神社、山智神社を合祀して、村社忌部神社となったもの。同地域に後原・中島遺跡があり、また地元民によっても遺物が採取され忌部神社に保管されていますが、遺跡の濃密さという事では、玉湯川側の方に分が有るようです。
(参考文献:谷川健一氏編「日本の神々 山陰」)
【伝承】
「出雲と大和のあけぼの」には、紀元前から3世紀までは、玉作りの中心だったのは、東の出雲王・向氏(富氏)であり、櫛明玉命はその富氏の分家だったと言われる、と書かれています。出雲王国時代、富氏は意宇地域を拠点にしていました。その西の忌部神社のあたりにも、向氏の分家、太玉命が住んでいました。その名は勾玉を作った事に依ります。その御方は、こちらも富氏の分家である大和の登美氏(後の三輪氏、鴨氏)の始祖となる天日方奇日方に従って大和に行き、忌部氏の遠祖になりました。
「古事記の編集室」で、奈良時代の始め、国司として忌部子人が出雲に赴任し、記紀の元になる出雲の神話を、出雲国造に書いてもらった(立場からすると、書かせた)、と説明されています。その期間は8年の長きにわたったので、その間、職権で領地を獲得しそこに”忌部”の地名が付いたらしいです。中臣氏とのライバル関係が、国造との関係を強めた話がその本に書かれています。