[ いけにますあさぎりきはたひめじんじゃ ]
唐古・鍵遺跡のほぼ東方、1キロもない距離の大和川沿いに鎮座する、境内、社殿ともにとても重厚な雰囲気のある神社です。何か意味ありげなお名前にもかかわらず、あまり具体的なことがよく分かっていない謎の神社のようで、参拝をさせていただきました。境内や社殿もそうですが、境内には立派な石碑、歌碑がいくつもあり、現在も熱心に信仰されている風でした。天満神社や竹田神社と共に、自転車で東方に三輪山や巻向山を望みながら巡りました。
木々が参道を覆いこんもりしています
【ご祭神・ご由緒】
ご祭神は、天万𣑥幡千々比売命と菅原道真です。道真公については、「大和志料」の゛法起寺旧例寺役之事゛に、天慶九年(946年)鎮座とあるので、そもそもは一座だったとみられます。
先の書きました通り、近くに唐古池があり、「日本書紀」応神天皇の時期に武内宿禰が韓人を率いて作った゛韓人池゛に比定されていますが、「神社覈録」は、社名の「池」についてその韓人池をさすのであろうかと述べるにとどまり、断定はされていません。
拝殿。「天満宮」の額がかかり、天神信仰が長かったことが偲ばれます
【祭祀氏族・神階・幣帛等】
「大日本史」と「神祇志料」によると、平安時代の「令集解」には相嘗祭の使いとして池首が当社に官幣を奉ったとあり、この事は当社と池首が無関係でなかったことを思わせるが、池首については系譜が不明だと、「日本の神々 大和」で松田智弘氏が書かれています。たしかに、佐伯有清氏の「日本古代氏族事典」にも、池氏という氏族は出てきません。松田氏が引用した池田源太氏の言でも、「池」という地域がこのあたりにあり、そこに住む一氏族の祀る女神だった事が考えられる程度で、当社についてはよく分からないという事です。
「大倭国正税帳」には、゛池神戸、稲一六束、祖六一束、合七七束゛などと記録が有り、奈良時代には存在したことが分かります。「新抄格勅符抄」には゛池神三戸゛とあり、貞観元年(859年)に従五位下から従五位上に加階されています。国史大系本「延喜式」神名帳では、゛池坐朝霧黄幡比売神社゛とありますが、九条侯爵家本と金剛寺所蔵本は「黄」を「横」と記してヨコハタヒメとよんでいるようです。
本殿。大き目の春日造
【中世以降歴史】
江戸時代の「大和志」は、法貴寺村にあって「天神」と称すると述べ、「大和名所図会」なども当社を「天神」と記していますが、「大日本史」と「神祇志料」は、「池神」、「池社」というと記しているので、松田氏はこの呼び方が本来のものだろうと考えておられました。
本殿向かって右の境内社。右から須佐男神社、事代主神社
【鎮座地、発掘遺跡】
この地域の地名は近世には「法貴寺」となっていましたが、この名は聖徳太子が草創し秦河勝が賜ったという法貴寺(法起寺)に由来し、当社のすぐ北には旧神宮寺の法貴寺跡があります。この寺の本尊、薬師如来像について、「和州旧跡幽考」や「大和名所図会」は百済からもたらされたとし、「大和志料」の引く実相院所蔵の縁起文は、「暦録」に曰くとして、新羅国王が薬師如来三尊像を送ってきたと説明します。いずれにしても、この寺は渡来人と関係が深かったことがうかがえると、松田氏は述べています。やはり、秦氏との関りを考えたくなります。
本殿向かって左の境内社。右から琴比羅神社、市杵島神社。一番左はわかりません
【「黄幡」のこと】
あまり一般には考えられないようですが、個人的に「黄幡」という名前を見ると、どうしても「黄幢(コウドウ)」という言葉を連想してしまいます。言うまでもなく「魏志倭人伝」で、難升米が二度に渡って魏の皇帝からもらったものです。安本美典氏の解説によると、「幢」は旗のことであり、考古学でも「幢幡(ドウバン)」という言葉が、飛鳥時代の天皇が出御する重要儀式で立てられる旗ざお(鳥形幢、日像幢、月像幢などが「続日本紀」に記述あり)を指すものとして使われています。また、「幢」の字も、「魏志倭人伝」のものと同じです。
大きな唐破風が印象的な拝殿
幢の形状は、有名な三角縁神獣鏡に刻まれている笠松文様が似ており、安本氏はこの笠松文様が黄幢をあらわしている可能性がかなりあると考えられています。一方の色の「黄」の方ですが、安本氏は幾つかの可能性として、黄色が魏の国のシンボルカラーであった事、中国の皇帝そのもののシンボルカラーであった事、そして難升米に与えられている事から将軍旗のようなものであった事など挙げておられましたが、何れも中国大陸側のお墨付きを与えるような意味を持つ色と考えて良いのでしょう。一方で中国語として見ると、「黄」と「皇」の発音が同じ(huang)なので、今でも中国では黄色を皇帝の色と考えているようです。安本氏は、鳥形幢、日像幢、月像幢などは、黄幢を元にして天皇や朝廷が権威を示す威信財としての「幢」をつくりだしたものか、と推定されていました。安本氏はいわゆる邪馬台国東遷説の方なので、黄幡が後の大和王権につながったと考えられているということです。
上記のように「黄幡」=「黄幢」となると、「黄幡比売」とは九州の方の卑弥呼、あるいはそれを受け継いだ(東出雲王国伝承が、実際に豊国から大和に来たという)トヨにあてたくなってきますが、そうなのでしょうか?それよりも、素直にご祭神との関係を考えた方が自然な感じがします。
隣接する千万院の横に法貴寺大字公園があります
【伝承】
「出雲王国とヤマト王権」で富士林雅樹氏は、当社ご祭神の𣑥幡千々姫命は、弥生時代に中国大陸の秦から日本にやって来たという伝説を持つ徐福の母親の和名だとする伝承を書かれています(この親子は九州に住み、近畿地方には来ていないそう)。また、斎木雲州氏は、記紀に登場する゛ニギ゛の名を持つ複数の神様が、この徐福をモチーフにしていると述べられています。更に斎木氏は、いわゆる後の古墳時代に渡来した朝鮮系秦氏が、その徐福と共に来た人たちをルーツにもつアマ~海部氏と混同されていて、そもそものハタ氏は弥生時代に徐福と共にやってきた、中国からの渡来人だとも言われます。近くの唐古・鍵遺跡では近年、中国に由来するとされる遺物が発掘されており、唐古・鍵考古学ミュージアムで展示もされています。
歌碑
こうして出雲伝承を重ねてみると、なるほど「黄幡姫」は𣑥幡千々姫命のことであるように感じてきます。あるいは、卑弥呼、トヨとのダブルイメージが込められているのでしょうか。それでは、「朝霧」とは何を意味するのでしょうか。ともかく、朝鮮半島やその秦氏とつなげるより、中国大陸側とつなげた方が、「黄」は理解しやすくなると感じます。
出雲伝承の説明では、記紀の話のポイントの一つは天津神系とされた渡来系氏族が国津神系の在来系氏族に勝った話であり、そこらあたりをオブラートに包むために、徐福や「魏志倭人伝」の話が徹底的に分かりにくくされた(故意に錯乱させた記述があるなど)という事らしいので、当社のご由緒がよくわからないのはその事と根が一致しているのかしらと、ロマンを感じています。飛鳥~奈良時代、なんとか背伸びをして大陸側と対等にやって行こうとしている時期の正規の歴史書に、大陸側の属国だった過去の事実を自ら認める記述は必要なく、過去に大陸側と関係した方々を違う人になぞらえたりして、しらばっくれたという感じというのが出雲伝承の主張だと理解しています。
𣑥幡千々姫命を顕彰する石碑
(参考文献:雑誌「邪馬台国」137号、宮岸雄介「中国語[文法]トレーニング」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)