今年2018年の春、今城塚歴史古代歴史館で実施された特別展、および関連の講演会のご紹介です。ちょうど、丹後地方の、特に弥生時代の遺跡情報を知りたかったので、タイムリーでした。
展示でカバーされていた時代は、その弥生時代から古墳時代、継体天皇の時代までの広い範囲。今回は、弥生~前期古墳時代あたりまで、私的に
興味深く理解できた事をアップ致します。
講演会は計5講演が催されましたが、私は以下の2講演を聴講させていただきました。
・ヤマト王権と丹後・丹波の古墳 -副葬品からみた地域性
内田 真雄氏(今城塚古代歴史館 学芸員<現在は館長>)
・丹後弥生王国の盛衰 -海外交易が支えた王権のゆくえ
肥後 弘幸氏 (木津川市教育委員会 文化財保護課長)
1、弥生時代のタニワ
この時代の丹後地方の特徴的な遺跡は、玉類や鉄器の生産遺跡、そして独自性の強い王墓遺跡。遠隔地からもたらされた原材料を、大陸や朝鮮半島から伝来した最新技術で加工し、玉類やガラス製品を製作していた様子が復元できます。また、鉄器は当時まだ近畿、ヤマト方面にはあまり流通してなく、1番の北部九州に次いで、この丹後地方で鉄器が流通していました。これは、この地方が大陸、朝鮮半島から直接鉄器を入手していた証です。
・扇谷遺跡(弥生時代前期末~中期初頭、京丹後市峰山町)
平野部から30~40mの高さの高地性集落。鉄製品、ガラス原料、玉作関連遺跡が出土。中国の土笛、陶塤(とうけん)も出土しています。鍛冶滓やガラス原料の出土から、新し技術をもった工人がいたことが想定されています。
・途中ヶ丘遺跡(弥生時代前期末~後期:京丹後市峰山町:比沼麻奈為神社がまずまず近いです)
出土物は扇谷同様。ここでも陶塤が3点出土しました。小穴が6個開いたもので、これは紀元前3世紀末ごろに誕生した形態です。陶塤と言えば、島根県の松江市で50点以上出土しており、「陶塤のメッカ」と言われているそう。出雲から丹後への流れが、出土品からも見て取れます。
・奈具岡遺跡(弥生時代中期~後期:京丹後市弥栄町:奈具神社が近いです)
丘陵斜面に展開した集落遺跡で、緑色凝灰岩の管玉、石英塊を素材とする小玉、ナツメ玉、勾玉、ガラス小玉の製作工房がありました。出土遺物には、未成品や失敗品、石製や鉄製の加工具などがあり、弥生時代の玉作が復元できる貴重な資料となっています。また、大陸から輸入されたカリガラスや鉛ガラスを加工した痕跡もあり、この地の集団がこれらの手工業生産で遠隔地との交易を進め、首長のもとに富を蓄積していった歴史が垣間見えます。さらに、稲作水田跡らしき遺跡も発掘された事も奈具岡遺跡の特筆すべき点でしょう。
奈具といえば、「天の羽衣」伝説の天女が落ち着かれた場所、奈具社が思い出されます。比治の里(京丹後市峰山町)の真名井の泉に降り立って、奈具村に落ち着かれた話でした。この神は、豊受大神と同じ神だとの説があります。玉作で豊かになり、歴史上の要人が出入りした地だからこそ生まれた神話だったのかもしれません。
・三坂神社墳墓群(弥生時代後期、京丹後市大宮町)
尾根を階段状に整形して平坦面をつくりだした台状墓6基を含む合計39基の埋葬施設です。多くの木棺墓からは、意図的に破砕された土器が出土し、鉄製品もしくは玉類が副葬品としておさめられている事が特徴。墓壙内の土器は「墓壙内破砕土器供献」と呼ばれるもので、丹後半島を中心に近畿北部の弥生時代中期後葉から古墳時代前期の古墳にしばしみとめられます。
その中でも特に、3号墓第10主体部は、他とは隔絶した規模と内容をもち、新たな墓制を確立した丹後地域の王墓とされています。木棺内には、頭部に水銀朱が堆積、ガラス管玉をつづった頭飾りを始めとした玉類だけでなく、素環頭鉄刀と鉄鏃、ヤリガンナ等の鉄類も収められていました。肥後先生は講演で、丹後を変えた人、宝を外国から持ってきた人だったろう、とおっしゃっていました。出雲と大陸の文化をミックスした、「丹後王国」の始まり。他の日本海地域と一線を画しつつ。。。
・赤井今井墳墓(弥生時代後期後葉、京丹後市峰山町)
こちらも豪華な副葬品が検出した王墓と考えられており、再現展示されていた、ガラス勾玉、ガラス管玉、碧玉管玉を規則正しく配列した頭飾りが、出雲弥生の森博物館で見たアクセサリーの進化型みたいで奇麗でした。もちろんここでも、破砕供献土器が見つかっており、中には東海地方からの搬入品と考えられる壺も有ったそうです。
2、弥生時代の丹後の墓制
ここで以上みてきた、弥生時代の古墳の特徴を整理しますと、まず気づくのが、出雲を中心とする山陰地域の墓制で、北陸にまで分布している「四隅突出墓」が、丹後地域には見られない事です。これは丹後地域が独自の文化圏を形成していた事のあらわれ、とここでは説明されています。
(1)弥生時代中期後半
山陰地方の"よすみ"と、近畿地方の方形周溝墓の影響をうけた、方形貼石墓が出現。方形周溝墓や台状墓も見られる。
(2)弥生時代後期前半
方形貼石墓が造られなくなり、尾根を削り出して平坦面を造る台状墓が盛んになり、「墓壙内破砕土器供献」が行われる。
(3)弥生時代後期後半
台状墓に、大型墓壙、大量の水銀朱、鉄器やガラス製品の副葬といった特徴が加わります。これら発掘成果から、列島を代表する地域社会の一つとしての地位を確立していたと認識されているのです。
東出雲王国伝承でもこう言われているといいます。
~越後から北九州の宗像までの日本海沿岸に展開していた出雲王国は、アマ氏(後、尾張氏・海部氏)の丹波勢力が強力になると分断されかかった~
・古曽部・芝谷遺跡(弥生時代後期初頭、高槻市古曽部町等)
ここで高槻市の弥生時代遺跡です。高地性集落として特筆される本遺跡では、人為的に割った土器を棺の縁に配置したと思われる破片が確認されています。その他、ヤリガンナの副葬とあわせて、北近畿の墓壙内破砕土器供献との類似性が指摘されているのです。肥後先生は、「丹後の人が高槻に来て葬られている」とおっしゃいました。さらに先生は、高地性集落というと、倭国大乱の時の見張り台的なものと言われるが、本当に大乱が有ったのか?と疑問視されていました。それよりも、平野の少ない丹後地方の高地性集落や墓制が、摂津三島にも一部持ち込まれたのではないか、との考え方も可能です。
3、タニワと大和王権 ・・・ 古墳成立期の様相
話はヤマタイ国の時代、つまり前期古墳時代になります。この時期に、古代史に論争を巻き起こしてきた、青銅鏡が出土してきますが、これらの副葬鏡は3世紀前半の所産であり、分配の中心であるヤマトからもたらされた、とされています。一方で古墳自体の規模は小さく、弥生時代の大型墳墓を造営した勢力がこの段階でヤマト王権に組み込まれ、相対的に低下した、と説明されています。
・太田南5号墳(3世紀中頃、京丹後市弥栄町)
石棺内から青龍三年銘方格規矩四神鏡と鉄刀が出土した方墳。副葬品の組成はこのあたりから定型的になってきて、鏡、鉄製武器(剣、刀ヤリ、甲冑)鉄製農工漁具、玉類と決まってきます。その中で、鏡や鉄製武器については、ヤマト王権が輸入して関係豪族に配布するようになっていった、と考えられています。
・広峰十五号墳(4世紀後半、福知山市)
少し時代が降る古墳ですが、由良川流域では最初の前方後円墳。現実にはなかったはずの「景初四年」(景初三年、明帝退位。翌年、正始元年)と表記された紀年銘鏡が発掘され議論が続いています。
・安満宮山古墳(3世紀中頃、高槻市安満御所の町)
先の太田南5号墳から出土した鏡と同じ青龍三年銘方格規矩四神鏡と、魏鏡か否かの論争が今だに絶えない三角縁神獣鏡が共伴して出土した事が話題の、前期古墳時代、わが摂津三島最古の古墳です。先のタニワの2基も丘陵上の造成でしたが、この安満宮山古墳も山の中腹にあり、とても景色が良いです。高槻市営の大きな墓地の、造成前の事前調査で発見されました。
この後、4世紀末に日本海三大古墳(蛭子山古墳、網野銚子山古墳、神明山古墳)が造成され、ヤマト王権が朝鮮半島や大陸からの先進文化の受け入れ窓口として日本海ルートを重視していた当時の状況を反映します。「丹後型円筒埴輪」と呼ばれる、頂上部が丸くすぼんでいく独特の文化もある一方、網野銚子山古墳などはヤマトの佐紀陵山古墳と同一の設計企画で造成されており、より中央との関係が強まっている様子がうかがえます。5世紀に入ると丹後型円筒埴輪も見られなくなっていったようです。