中世には丹波一之宮、近世には出雲大明神と称された由緒ある神社です。「徒然草」にも、゛丹波に出雲といふ所あり、大社(島根の出雲大社)をうつしてめでたくつくれり゛とあり、その出雲大社と同様、縁結びの聖地として名高いです。一方では、「元出雲」との俗称も語られ、出雲大社より古いとの見方もあり、大変奥深い謎を秘めていそうな神社です。
・一の鳥居。見出し写真は、国常立尊が鎮まる御神体山である御蔭山が背景
【ご祭神・ご由緒】
現在のご祭神は、大国主命と三穂津姫命。背後の御蔭山は国常立尊が鎮座するとされる御神体山で、今なお禁足地です。特に本殿裏の巨大な磐座が名高く、まじかで拝見すると圧倒的な神威を感じました。上記の「徒然草」にある通り出雲大社の分霊を勧請したともされますが、起源や背景は未詳と言わざるを得ないようです。公式社伝では和同二年(709年)に創建(社殿の創建)と言いますが、根拠となる「関東御教書」や「社領傍示絵図」は、これら文章の真偽や絵図の成立年代には若干の疑問が提示されていると、「日本の神々 丹波」で青盛透氏が書かれています。
・二の鳥居
出雲大社は江戸時代までは杵築大社を称していたので、出雲の名を冠するということでは当社の方が古いと考えられます。さらに当社のしおりでは、「丹波国風土記」の゛元明天皇和同年中、大国主命一柱のみを島根の杵築の地に遷す゛という記述から、出雲大社より古くから大国主命を祀っていたとの考えをされています。またそのしおりでは、富士浅間神社に伝わる「宮下文書」が取り上げられています。太古に国常立尊が天降り、桑田の宮(出雲の宮)を築いてこの地を統治した後、田羽山(出雲御神体山≒御蔭山と思われる)に葬られました。そして出雲毘女皇らによってその御神体山の麓の祠に祀られたとする等の記述から、当社が古来より出雲の大神と崇められていた、という見解も述べられています。
・境内。ひっきりなしに参拝者が訪れていました
歴史学者の村井康彦氏は、「出雲と大和」の中で、大国主命の国作り神話が出雲に始まって大和に至って完了するとし、その出雲と大和の間にあるその痕跡の手がかりを三輪山に求められます。この山が持ち続けている祭祀=信仰の形態が、すなわち「磐座信仰」であり、その連鎖として出雲と大和の間に存在する神々の一座として、当社と境内の磐座を挙げておられます。当社以外では、大阪府交野市の磐船神社や丹後の籠神社を取り上げ、出雲へつながっていくと考えられてます。さらに、天火明命を出雲系の神として捉えておられました。
・夫婦岩。大神神社とはだいぶ様子が違います
・真名井の泉
【神階・幣帛等】
奈良時代には、近くに都と山陰地方を結ぶ古山陰道が通っていたとされ、南方2キロには丹波国分寺跡(国指定史跡)もありました。平安遷都後に中央政府との関係が深まり、神階も授かるようになります。「続日本後記」にある845年の従五位下に始まり、「日本紀略」の910年には正四位上にまで進階しました。後の近世の地誌「桑下漫録」が引用した「実兼公記」1292年の条に正一位となった記録がありますが、西園寺家記録(当時の重要な根本史料とされる)には、この伝本はないそうです。「貞信公記」の931年の条に゛出雲神社使゛とみえていて、当社に関係するものと思われる事から、律令制下ではしばしば朝廷が祈願のための使者を派遣していたと考えられます。「延喜式」神名帳では丹波国桑田郡の筆頭にある「出雲神社」として載る式内社です。
・拝殿。ここではお参りはしません
【中世以降歴史】
以降もますます地位を強固にしていったようで、1025年には丹後国司源経頼が国内の旱魃飢饉を憂い、留守所(国司が京にいる為、不在となっている現地の政庁)の在庁官人(国司の代わりに国務と務める役人)を通じて当社の供僧に雨ごいと五穀豊穣の祈願のための大般若経転読が命じられていた記録もあります。当社が丹波一の宮と記録される初見は1184年の後白河上皇院宣ですが、上記の雨ごいが国司の政策として、そして留守所という現地役所を通じて一の宮の神事が丹波一国に浸透する状況が既に創出されていたことに、青盛氏は注目されていました。
・こちらでお参りします。天皇陛下御幣饌料の札が多数
後白河上皇の発願で平清盛が三十三間堂(蓮華法院)を造営すると、国衙領(国司が政務をとった国府の支配地)だった当社社領は三十三間堂領に新規編入され、実質上は皇室領の一部になった可能性が強い、と先の青盛氏は言われます。俗にいう源平の争いが起こると当社社領に源頼朝が地頭(幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職)を設置し、地頭職玉井資重が社領を横領する事態も起こりました。そして、南北朝の動乱期を迎えると、朝廷や国衙との関係が後退し、室町幕府や丹後守護との結びつきが強化されていきます。
・重要文化財の本殿
現在の本殿はこの時期の貞和年間(1345-50年)にあの足利尊氏によって築造されました。丹波守護は移り変わりが有りましたが、明徳の乱(1391年)以降はもっぱら細川氏の領国となりました。なので、補修工事は丹波守護の細川氏が関与し、「南桑田郡誌」所載の1445年の上棟棟札では、願主に細川勝元の名がみえます。
・鎮守の森入口。こんもりした森の中に祠や磐座が点在しています
当社には明治時代までは神宮寺がありました。御影山山麓附近からは平安時代の瓦が出土しており、これが神宮寺の旧跡と推定されています。現在当社の西に位置する極楽寺所蔵の平安期作十一面観音像は神宮寺(近世は観音寺)から遷したものです。この十一面観音像と、檜皮葺の三間社流造の本殿が重要文化財に指定されています。
・御蔭の滝
【境内、鎮座地】
尊氏築造の本殿は、檜皮葺三間社流造の様式で、国の重要文化財になっています。また、境内には横穴式石室を持つ後期古墳や、神社の近くにも車塚と称する前方後円墳もあり、古代には御影山を崇める氏族が居住していたと思われています。
・有名な磐座
【祭祀・神事】
祭祀については、4月に行われる鎮花祭と10月の例大祭が有名で混雑するそうです。ことに鎮花祭で奉納される「花踊」と呼ばれる踊は、中世末期から近世初期にかけて各地で流行した風流踊の一種で歴史あるものです。社蔵の1459年「北出雲・中村・江島里三ケ村置文」に載る゛雨悦風流゛の記載がそれにあたります。1742年には、新参の氏子馬路村が踊りを催したのに見学用の桟敷が得られなかったと論争が生じた記録もあるようで、いかに熱いお祭りだったかが分かります。
現在の花踊は、一時中絶していたものを昭和初期に伝承者を中心に復興したもの。花笠や衣装は風俗研究家吉川観方氏による創案ですが、歌謡などは旧来の伝統を忠実に復元し、一宮踊(旧御伊勢踊)、恋の踊、正月踊、入端らの各曲を継承しています。これらは、京都府の登録無形民俗文化財になっているのです。
・磐座の横にある古墳の拝所。推定5~6世紀初めの横穴式墳墓が山上にあるとのこと
【伝承】
富士林正樹氏の近刊「仁徳や若タケル大君」でこの神社が登場します。神社の言う社殿の創建時期は違っていて、もう少し古い時期だと主張されています。そして、信仰としての始まりは、出雲の人がヤマトへ行くようになり、亀岡が途中の地にあたりよく宿泊したことから、三輪山の大神神社と同じ古い出雲信仰の神社が造られたと説明しています。この道は古山陰道のことだと思われ、いつの頃の話かがはっきり書いてないのですが、東出雲伝承の文脈からすると、弥生時代中/後期から古墳時代のどこかでしょうか。そして、三輪山西方に出雲人が住むようになって以降の事になるでしょうから、そもそもの三輪山信仰(いわゆる九州東征勢力侵入のずっと前)よりは新しそうです。また、出雲大社に対しては、当社出雲大神宮の方が古いという見方になります。
・少し上った場所にある上の社。素戔嗚尊と櫛稲田姫尊を祀る
個人的には、一時は出雲王国の領土だったと伝承では繰り返し説明し、最初の大和移住の足掛かりとなった摂津三島を、なぜその後よく通らなかったのかが気になります。単純にショートカットできる古代山陰道を通ったからだけなのでしょうかね。現在の高槻市には、野見宿禰の名を冠した野見神社が二社ある程度で、出雲との関連を示す史跡は有りませんし、高槻の古代史で出雲の事が話題になるような話は見かけません。
・国常立尊の「神の磐座」入口。社務所での受付が必要です
(参考文献:出雲大神宮公式ご由緒・しおり、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 丹波」、矢澤高太郎「天皇陵の謎」、今尾文昭「天皇陵古墳を歩く」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)