(2022.5.28写真更新)
高槻に、名前に「鴨」の字を持つ、興味深い神社が2社有ります。淀川近くに鎮座する三島鴨神社と、更に北側の国道171号線近くのマンションの合間にたたずむ鴨神社です。延喜式神名帳に「三島鴨神社」の名で記載されていますが、2つの内のどちらなのか確定していないので、共に式内社論社となっています。愛媛県の大山祇神社(大三島大明神)と静岡県伊豆の三嶋大社とで、「三三島」と呼ばれましたが、ここ高槻の社が大元だと神社は説明されます。
・👆の見出し写真は三島江社の境内入口鳥居。 👇が赤大路社の参道前鳥居
【三島鴨神社(三島江)】
公式HPや境内の掲示板では、古墳時代に仁徳天皇が茨田堤を築かれる際に淀川鎮守の神として百済よりこの「御島」に大山祇神をお祀りした事が起源と伝えられる、としています。「御島」とは三島江付近に有った淀川の川中島の事で、1598年に堤防修築の際にその中洲から現在の地に移されたそうです。
・(三島江社)境内
以上、由緒の説明は控えめなのですが、地元の郷土史家の方を中心に20名弱で執筆・編集された"三島鴨神社史”を発行されているらしく、興味深いです。公式HPでも、その社史で作成された創建当時の「御島」付近の淀川の略図が載っていて面白いですね。当初は"三島神社"と名乗ったよう。本殿にはもう一柱、事代主神も祀られていますが、ここが鴨(賀茂)と関係してくるのですね。なお、この神社は、茨木市の溝咋神社との関係が深いそうです。
【鴨神社(赤大路町)】
延喜式で記載されている所在地"摂津国嶋下郡"からすると、こちらの鴨神社の方が有力となります。この社の公式HPは、独自の古代史伝承を展開されており、なかなか主張が強く面白いです。ちょっとかいつまんでみます。
・(赤大路社)境内
- 先祖の鴨族の先住民族は、葛城山にある高鴨神社を祀った鴨族。その一族がこの嶋下郡に勢力を伸ばした。
- その後、3世紀中期に、鴨族は神武天皇と共に卑弥呼を打倒した。
- 初代神武天皇から第9代開化天皇(4世紀初め)までは葛城王朝であり、鴨族はその王朝を支えた。その王朝期の3世紀に、鴨神社は創建された。
- 4世紀中頃、近畿で成立した大和朝廷により葛城の鴨族は滅亡した。
- 4世紀末の仁徳天皇の時代に百済から武寧王の斯麻王、つまり御嶋(三島)の神が渡来し、現在の津之江や三島江の方から北へと勢力を伸ばした。
- その三嶋氏が勢力を伸ばし、県主となってそれまでの鴨神社と合祀して、三島鴨神社となった。これが現在の鴨神社である。
・(三島江社)拝殿
【賀茂氏の三島進出】
谷川健一編「日本の神々 山城」で、大和岩雄氏が加茂氏に関して論考されています。雄略天皇によって葛城氏が滅亡した事に続き、葛城にいた賀茂氏が王権強化の目的で、交通の要衝であった木津川の岡田と淀川の三島江に移住させられ、その地にそれぞれ岡田鴨神社と三島鴨神社が祀られたとされます。「日本書紀」の雄略紀に、凡河内直香賜が采女を冒し、その罪により三島の藍原(現在の茨木市太田)で斬られた記事があります。そもそも三島郡は凡河内直の本拠地であり、この機会に加茂氏が三島江からさらに藍原の地に進出し、そこに赤大路の鴨神社が祀られたのだろうと結論付けられていました。
・(赤大路社)拝殿
【伝承】
東出雲王国の古伝でも、三島鴨神社の事が触れられています。まず、出雲王国の初期に、瀬戸内地域がその勢力範囲に入り、王国の祖先神である大山津身之神信仰が伝わっていました。そして、摂津三島の溝咋姫が事代主命の妃として東出雲王国に招かれたころ(紀元前3世紀)、三島と瀬戸内の島々との関係が深まったそう。伊予の島に大三島の名が付いて、大山祇神社が建てられました。溝咋姫はその後、登美~賀茂氏の始祖となる御子達と大勢の出雲人を連れて三島に戻りますが、このような流れの中で大山津身之神を祀る伊予大三島の人々が東に移動し淀川を逆上り摂津三島に広がったとの説が紹介されています。
一方、事代主の血統である大和の登美~賀茂氏の親戚にあたる、大彦が現れます。開化天皇の兄にあたる人。そして長髓彦のモデルになった人で、紀元後2世紀に大和から追われ(つまり退却した)、摂津三島に一時住んだ後、木津川流域から伊賀国を本拠とした時期がありました(なお、伊賀国が先で、三島が後だとの話も最新刊で出てきました)。木津川は、宇治川、鴨川と合流して淀川となり、その合流地点の三島は水運の重要拠点です。この関係から、大山津身之神を奉じる三島氏と、伊賀国を支配していた賀茂氏が後に結び付き、三島賀茂神社を建てた、との説明がされています。元々はこの大彦とその御子の武沼川別を祖神としていたらしいです(「事代主の伊豆建国」)。
・(三島江社)本殿
以上の古伝の話は、どちらかというと三島江の三島鴨神社の説明になってるのでしょうか。。なお、公式ご由緒での大山祇神が百済から来た説明は、記紀の話や出雲伝承からすると違和感があります。出雲伝承の方の説明では、上記の通り大山祇は出雲王朝の祖先神(幸神)であり、元々は大山に宿る神なのです。だから”大山”祇神。
赤大路の鴨神社の伝承に、邪馬台国の卑弥呼の事が触れられており興味深いですが、東出雲伝承での邪馬台国の説明との比較を簡単にですが、してみたいと思います。
・(赤大路社)本殿
- 高鴨神社を祀った氏族となると、東出雲王国の分家の登美氏を頼って、西出雲王国の神門臣氏が移住した分家、高鴨氏という事になります。登美氏とひっくるめて、鴨氏と呼ばれた、と出雲伝承では説明されていました。
- ”神武天皇”を゛日向生目から来た王゛に置き換えれば、出雲伝承と合います。卑弥呼はヤマトにもいた姫巫女の事と考えて良いでしょう。「事代主の伊豆建国」で、゛タギシミミの名前を古事記では、神門臣・神八井耳に変えて話を作っていて、神八井耳の子孫の一部は四国の伊予国に逃げた・・・゛と書かれ、さらに伊予国は九州東征軍に参加した、と書いています。この伊予国郡に神門臣~高鴨氏が含まれていれば、”共に”もその通りとなります。それより、゛日向生目から来た王゛の援軍として出雲(大和の前に出雲で東征軍に敗戦)から野見宿祢が参戦した話の方が、同じ鴨なので合うでしょうか。或いは、単に八咫烏の事を言ってるだけかもしれません。とにかく、鴨と九州東征軍が連携するというのは、馴染みにくい説明だとは感じます。
- ”葛城王朝”は”大和朝廷”(河内王朝と思われる)より前の別王朝としているのは、東出雲伝承と合います。ただ、葛城王朝期を3世紀後半として、4世紀中頃に大和朝廷の成立(神功皇后~応神天皇か)とするなら、期間が短すぎるようです。記紀説話に合わせて無理な説明になっているのでは。。。
- 大和朝廷と並立・拮抗した葛城襲津彦の葛城氏と鴨氏は協力していたが、その葛城氏は滅亡し、また雄略天皇により高鴨神あるいは一言主神が土佐に流されたという話もあるので、葛城氏滅亡に伴う受難の事を指しているような気がします。東出雲伝承でも富士林雅樹氏は、このあたりに受難が有ったろうと認めておられました。
- 三島大溝の築造に、百済などの技術者が三島に来ていた可能性はこちらで推測しました。
- 韓国から来た渡来人は重要だったでしょうが、やはり高槻北部の弁天山古墳群やさらに古い古曽部・芝谷遺跡を築いた、より古くから居た勢力が三島県主になったのでは。丹後からのアマ氏も加わって。。。
・(三島江社)゛三島江゛。南方の生駒山方向