摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

木島坐天照御魂神社2 - 養蚕神社(こかいじんじゃ/蚕の社:京都市右京区太秦)~八百比丘尼の長寿伝説やハタ地名の伝承

2021年05月15日 | 京都・山城

 

前回「1」では木島神社の「三柱鳥居」とユダヤの関係や「元糺」の所以などに関して記載しましたが、今回は、「蚕の社」の俗称の由なる境内社、養蚕神社をメインにします。社殿は本殿向かって右に鎮座しています。

 

【太秦の起源】

秦氏の祭祀する神社の境内に養蚕に関わる神社がある理由は、「日本書紀」の雄略紀の、180種の秦の民を率いる秦酒公が税として上質の゛絹゛をうず高く積んだので゛禹豆麻佐゛姓を賜ったとう伝承によります。その他、「新撰姓氏録」や「古語拾遺」でも、多少違いはあるものの、命名の由来を蚕と絹に関連づけていると谷川健一編「日本の神々 山城」で大和岩雄氏が書かれています。さらに「三代実録」の887年に、元々秦忌寸だった時原宿禰春風が朝臣姓を賜った記事があり、その春風が語った言葉として、自分が゛始皇帝の十一世孫功満王の子孫゛で、この王の帰化入朝のとき゛珍宝蚕種等゛を献じ奉ったと記されているようです。

 

・拝殿からさらに奥の拝所。

 

【蚕と太陽信仰】

蚕は桑の葉を食べて育ちますが、中国では、太陽は東海の島にある神木の桑から天に昇るとされ、日の出の地を「扶桑」と称しました。養蚕神社が天照御魂神社の摂社であるのは、この扶桑とのかかわりによると、大和氏は言われます。茨城県の蚕影神社では、祭神金色姫は桑の木のうつぼ船に乗って漂着したというご由緒あります。金色は太陽に由来するようです。また、「播磨国風土記」には火明命(海部氏の太陽神)の怒りによって父神大汝命の船が破られた時、゛蚕子(ヒメコ)落ちし処、即ち日女道(ヒメヂ/姫路)の丘゛とあります。

そして何より、天照御魂信仰を元に生成した天照大神(大日孁(日女)貴/オオヒルメムチ)が、口の中に蚕の繭を含んで糸を出すことが出来、養蚕の道を開いたと、「日本書紀」にも書かれているのです。このように桑や蚕は太陽信仰にかかわるものなので、天照御魂神社の境内に養蚕神社が鎮座するのは当然、となります。

 

・拝所。本殿や養蚕神社はその奥に鎮座

 

【蚕と新羅】

先の「播磨国風土記」では、牧野の里の新羅訓村の地名由来を、昔、新羅人が来て住んだからだと書いていますが、その地は゛蚕子落ちし処゛姫路の北方の白国比定されます。その新羅国について、「三国史記」に始祖赫居世や五代婆沙尼師今が養蚕に勤めたと書かれていて、そもそも新羅のシラが朝鮮語の絹を意味するSir、や同じく満州語のSirge等と関連するという説があるよう(布目順郎氏)。「三国史記」には゛新゛は徳業が日々に新たになる意と書いていますが、これは漢字の意味であり、大和氏は前者説を推されます。

 

・養蚕神社。向かって右側の社殿です。基本は伊勢神宮と同様、平入の神明造で、珍しい形式です

 

そして、祭祀氏族秦氏は一般に加羅の地から渡来した新羅系の氏族とされます。「日本書紀」には秦河勝が、推古帝の時代に三度、新羅王から仏像を贈られており、いずれも近くの広隆寺に置かれました。最初にもらったのが国宝第一号となった弥勒仏だと考えられます(「扶桑略記」)。以上のように、養蚕-新羅-秦氏は太い線で結ばれていて、平野邦夫氏のように゛(同じく新羅系の)天日矛の説話を有する地域と秦氏の居住区は、ほぼ完全に重複している゛と言う研究者もおられました。

 

・中央が木島坐天照御魂神社の本殿。こちらも平入の神明造

 

【八百比丘尼伝説と秦氏】

怪しい一物を食べて数百年の寿命を得た老尼がいたとする白比丘尼や八百比丘尼伝説が若狭を中心に全国に(出雲にも)あります。実は、比丘尼の父が若狭の秦道満だったり(「笈埃随筆」)、秦川勝の子の秦勝道の子女が八百比丘尼になった(「新編会津風土記」)と言う話が有るそうです。大和氏によれば、道満は元々芦屋道満だと言います。それが若狭で秦氏になっているのは、漂白遊行の下級陰陽師のうちの唱門師が、安倍晴明の系統より、秦河勝を祖とする猿楽の徒に近かったためだと書いています。おそらく、秦河勝を祖とする宿者(シュクモノ)の七道者の中でも、歩き白拍子、歩き巫女が白比丘尼伝説を広めただろうという事です。

 

・本殿向かって左には、小ぶりな連棟式流造の摂末社が鎮座

 

この白(八百)比丘尼は、関東・東北地方の農業神・養蚕神であるオシラサマと関係し、蚕が幾度も化身し死と再生を繰り返すことから神秘的な霊力を持つと見られ、富(絹)と寿命を与える福神(常世神)つまり一種のオシラ神を祀るのが蚕の社だと言えるのです。比丘尼の長寿の話はここから来たようであり、秦氏は民衆の現生利益の願望と結びついた信仰と密接な関係にあったようです。

 

・境内の社殿に向かって左の「元糺の森」の中に、複数の稲荷社が祀られているエリアがあります

 

【伝承】

東出雲王国伝承では、紀元前3世紀に秦国から日本海地域に移住した徐福集団子孫である尾張氏・海部氏がそもそもの原ハタ氏だっ一貫して言っています。別称でアマ氏とも呼んでる人たちです。らにもう一度九州に渡来した同集団もまたハタ氏だとします。かし般の研究者は記紀の内容から、難波・河内王朝の時代に羅・加羅から渡来してきたのが秦氏だと言われます。「出雲と大和のけぼの」で斎木雲州氏は、これは誤解でありそれに至った背景をされています。

 

・左が白清社。そして稲荷神社が3社並びます

 

播磨の白国(姫路城の北方)辺りは、「播磨国風土記」に書かれている天日矛命(の子孫)と大汝貴命の戦いの結果、天日矛命の子孫の領地になったことがありますが、その2世紀における次の騒追い出されます。そこに丹後から海部氏が入り、廣峯神社に神゛して素戔嗚命と御子五十猛命を祀りました。そこに、らに後になって、天日矛命の子孫である神功皇后が牛頭天王を羅国明神と尊称したらしいです。以上の経緯から、秦国系新羅系の渡来人が混同され、秦国系渡来人を新羅系渡来人だと解す人が現われた、と説明されていました。ただ、説明はそまでで、5世紀頃に朝鮮半島からやって来た秦氏と、秦国渡来の原ハタ氏の海部氏に何らかの交流があったのか、またどう区分けされて今に至るのか等の説明はありません

 

・石室を社にした白清社。中はとても静寂な空間となるパワー・スポットです。

 

出雲伝承によると、秦国から初めてハタ氏が上陸した地は、出雲王国石見国の五十猛の地で、秦から来たのでシン族と呼ばれ、機織りの技術を持ってきたので、後にはハタ族と呼ばれた、と書いています。「出雲と大和のあけぼの」と「出雲王国とヤマト政権」で全く同じ書き方をされてます。そして、名残としてその辺りに畑井、畑谷、畑中の地名が残っていると云います。後に一族は、海(アマ)家を名乗った香語山命に率いられ丹波、丹後に移りますが、伊根町の畑谷や宮津市の畑の地名もハタ族の名残だと説明しています。ちなみに゛海部゛の名を付けたのは神功皇后らしいです。

ただ、ハタ呼称やハタ地名がいつからなのかがあいまいで、学問的な説明でないのが気になります。原ハタ氏と朝鮮渡来の秦氏の混交があったとすると、田鴨神社の記事で触れたように、初期大和勢力(いわゆる葛城王国)からこ山城国への動まで賀茂氏(初期大和勢力時代は出雲王家の分家・登美氏)と海部氏が一貫して行動を共にし流れが出来て面白いのですが、どうなのでしょうか。研究者の村井康彦氏が「出雲と大和」での論考の元とした話に、あの上賀茂神社のご祭神・賀茂別雷大神は海部氏の始祖・火明命と異名同神だとする海部氏の秘伝が有りましたが、これとの関係も気になってきます。

 

 

【羽田孜元首相の語った秦氏】

徐福友好塾出版の「徐福さん-伝承地に見る徐福像と徐福伝説」に、あの元総理大臣の羽田孜氏が寄稿されてて、家系の初代が秦始皇帝遠孫秦河勝の子孫だと紹介されています。一方で、徐福集団のハタ氏説も認識されていましたが、徐福との関りは無かろうと考えておられました。徐福は始皇帝に征服された斉の人なので、怨敵の名を称するわけがないというお考えです。ハタはそもそも仁徳帝期に織物を献上した渡来人に与えた「波多」であり、河勝も当初太秦ではなく「菟都満佐(「姓氏録」)」や「宇豆麻佐(「古語拾遺」)」なので、「秦」はあとからの当て字で、徐福でなく始皇帝の流れだと考えておられました。一般的な認識をされていたという事でしょう。

 

アマ氏をいつからハタ氏と呼んだのか気になりますが、「秦」ではなく「機織」に関わる人たちの事を、紀元前からずっとハタという呼称で呼び続けたと考えればよいのでしょうかね。ところで、上記した「播磨国風土記」の火明命が父神大汝命の船を破った話、梅原猛氏あたりは海部氏の火明命とは別神だと書かれていますが、出雲伝承では海部氏の祖神そのものだと説明します。その紀元前3世紀終盤頃の「事件」の場所は出雲の地であり、それをきっかけに一部の出雲人の摂津三島~大和への移住(奴奈川姫と建御名方命の帰郷も同時期)が始まった、と主張しています。でもなぜ姫路の話になってるのかは全くもって不思議で、説明されていません。

 

(参考文献:木島坐天照御魂神社ご由緒掲示、中村啓信「古事記」、治谷孟「日本書紀」、かみ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 大和/山城」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、宇佐公「古が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、梅原猛「葬られた王朝」、田中英道「発見!ユダヤ人埴輪の謎を解く」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」その大元版書籍)


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