摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

道明寺天満宮(藤井寺市道明寺)~野見宿禰の後裔土師氏の歴史や、仲津山古墳・古室山古墳のこと

2021年05月29日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

 

天満宮なので、現在は学問の神様として菅原道真公への信仰を集めている神社ですが、付近は世界遺産の古市古墳群でも最古とされる仲津山古墳や応神天皇陵とされる誉田山古墳が横たわる地域であり、そもそもはその築造にかかわったと考えられる土師氏に起源をもつ地だと捉えたいです。言うまでもなく、道真公の先祖が土師氏で、その始祖が野見宿禰だとされています。本殿背後にある梅園も有名で、「大阪みどりの百選」にも選ばれ毎年2月から3月には多くの参拝者が梅園お目当てに訪れるそうです。

 

・神門。道明寺がこちらにあった名残を感じます

 

【ご祭神、ご由緒】

ご祭神は主人に菅原道真公、他に土師氏の遠祖天穂日命と、道真公の叔母覚寿尼。式外社です。「日本書紀」に、野見宿禰が古墳築造の際の殉死の悪習をやめる代わりに埴輪を新たに提案した話があり、社伝によれば、この功により野見宿禰は「土師」姓を賜り、この地一帯をもらい受けて、天穂日命とその子の天夷鳥(あめのひなどり)命の神霊を「土師ヶ丘」に祀ったとしますが、「日本の神々 河内」で古田実氏は、判然としないと述べられています。このように、4世紀初期に土師氏が当地にいた事には疑問がありますが、古市古墳群の築造時に造営技術者兼責任者として、このあたりに古墳築造センター的なものを持っていた事は確実だと考えられています。

 

・注連柱

・「明治天皇行在所」碑。天寿殿は結婚式場で昭和43年築造

 

【祭祀氏族】

6世紀の末に当地に土師連八島がいて、594年に自宅の一部を精舎にして土師寺を創建しましたが、場所は天満宮の現在地の南、石段下の一廓で、南大門址、五重塔址、金堂址、講堂址などが一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍配置である事が分かっています。その後、7世紀前半期には八島・猪手が出て陵墓の造成に従事していましたが、蘇我宗家に従っていたため大化の改新後に政界から追放されたそうです。しかし、壬申の乱で猪手の子、馬手が大海人皇子方の武将として活躍、政界に復帰し一族は連から宿禰姓に昇っていきます。

 

・石鳥居

 

8世紀前半から中期にかけて一族の族長たちは「諸陵頭(みささぎのかみ)」を歴任し、後期には万葉歌人や学者も出るようになりました。そして桓武天皇の781年、従五位下の土師宿禰古人と外従五位下の土師宿禰道長ら十五名が、本拠地を河内土師の里から大和の菅原へ移す事と改姓の件を上表して許可されたのです。この時、土師の里の土師寺と氏神の「天夷鳥神社」を残して、一族の大半が大和へ転籍し、土師の姓も、それぞれの新たな居住地から菅原、秋篠、大枝、百集女(もずめ)と分化しました。ここに菅原姓が始まったのです。

 

・拝殿

・幣殿と珍しい入母屋造の本殿。権現造と言われ、入母屋造の本殿は御霊信仰系の神社から始まったそうです

 

【神階、菅原道真公の叔母覚寿尼のこと】

古田氏は607年の「神祇祭祀令」が公布された時点で土師氏の氏社が存在した可能性が大きいと考えられていましたが、「文徳実録」の858年に神階の記事があり、天夷鳥神が従五位下を授かっています。ただ、「延喜式」神名帳には見えません。当社寺には菅原道真公の叔母である覚寿尼が奉祭者として住んでおり、道真公が880年と884年にそれぞれ3カ月程滞在した記録があります。901年に大宰府に左遷される前にも訪れていて、都落ちの道中、淀川を下る船中で、゛世につれて難波入江も濁るなり道明らけき寺ぞ恋しき゛という当地を偲んだ有名な歌を詠みました。

 

・本殿裏の梅園。目に近い高さで花を見れるようにしているそう

・梅園の中の「観梅楼」から本殿を望む

 

【道真公死後の歴史】

道長公の非業の死後、都で道真公の祟りによるとされる事件や不幸が次々と発生した事に対し、朝廷では道真公の名誉を回復しお祀りする動きを様々取りましたが、その一環として947年、当地に道真公を主祭神とする社殿を新築し、全国的に鎮魂祭を挙行しました。土師寺は「道明寺」と改められ、新社殿は「天満天神宮」と命名され、この俗称が今の道明寺天満宮になります。さらに、遠祖の天穂日命が配祇され、道明寺の住職だった覚寿尼が亡くなって後に合祀されたと考えられています。さらに、天夷鳥神社は摂社的なものとして「土師神社」になったのですが、そもそもが本社であるので、現在でも地域の人たちの氏神として信仰されてるようです。

 

・八嶋社。土師連八島を祀る

 

当社寺は南北朝から戦国期にかけて、兵火にかかっては織田信長や豊臣秀吉から寄進があり再建されてきました。江戸初期の1633年の石川の大洪水の後、低地にあった道明寺が当社の直ぐ南に再建され、神宮寺形態となります。そして、明治5年に神仏分離令によって、五坊の中、二之室が神職家となり、道明寺は道を隔てて西に移築され、現在に至っています。明治時代には、天皇の行在所になったり、イギリスのジョージ五世来日の際の臨時宿泊所にもなり、重要な役割を担ってきたのです。

 

・近くの三ツ塚古墳で見つかった修羅の展示。再現実験の為復元したもので、本物は近つ飛鳥博物館にあります

 

【伝承の土師氏】

東出雲王国伝承によれば、野見宿禰は東出雲の旧王家の御方であり、当時の大和の王の援軍要請に応じて大和にやって来て、その功によりこの時大和の添下郡、つまり菅原町や秋篠町方面を与えられたと云います。「宿禰」は当時の大和政権の役職名で、「野見」も大和に来て変えた名前なので、出雲ではあまりこの神様を見かけないのは無理もないようです。高槻市にも上宮天満宮の境内社で式内社野見神社があり、昼神車塚古墳や五~六世紀の埴輪を製造した新池ハニワ工場が、土師氏に関わるというがよく語られます。

 

・元宮 土師社(土師神社)。割拝殿があります

・土師社の本殿。ご祭神は野見宿禰、天夷鳥命、大国主命

 

土師氏の遠祖として天穂日命、つまり出雲国造家の始祖が祀られているというのは、出雲伝承を語る方々には面白くない事でしょうが、そのような主張が有る事は取り合えず心の隅に隠しておいて、神社には感謝に気持ちを持ってご挨拶しました。それが一般人の心構えだろうと思います。

 

・仲津山古墳とその拝所

 

【仲津山古墳】

道明寺の西側、300m程隔てて、世界文化遺産である古市古墳群の仲津山古墳があります。応神天皇后の仲姫が被葬者とされる、墳長290mの大陵墓です。「天皇陵古墳を歩く」で今尾文昭氏は、古市古墳群では津堂城山古墳に続くもので、この間に一気に1.5倍になってる事に留意されます。五世紀前半でも早い方か、さらに遡る時期の築造と考えられ、同じころ百舌鳥では百舌鳥陵山古墳(いわゆる履中陵)が築かれます。今尾氏は、和の五王の讃との関係を想起されますが、特定は簡単ではないようです。そしてこの後、誉田御廟山古墳(同、応神陵)大山古墳(同、仁徳陵)築造と続いていくのです。なお出雲伝承では、大和にある古い出雲系豪族の古墳群の時代から土師氏がいて、その古墳築造技術を担っていたと主張しています。

 

・古室山古墳

 

【古室山古墳】

その仲津山古墳と前方部を向き合わせて隣接するのが古室山古墳です。こちらは公園のように墳丘に登る事ができて、知らなかったらこの威容が身近な事に目が釘付けになります。墳長は150m、三段築成の前方後円墳で、葺石や埴輪も確認されました。仲津山古墳よりやや古いようです。「古市古墳群をあるく」で久世仁士氏は、古市古墳群はこの古墳を始め、大鳥塚古墳、野中宮山古墳そして津堂城山古墳のような墳丘内に入れる古墳が多いとして、市民への古墳の開放を推奨されています。

 

(参考文献:大阪府観光局OSAKAINFO、藤井寺市観光サイト、道明寺天満宮公式HP、今尾文昭「天皇陵古墳を歩く」、久世仁士「古市古墳群をあるく」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 河内」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、梅原猛「葬られた王朝」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」その他大元版書籍

 


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