(境内社の養蚕神社や秦氏にまつわる伝承について「2」の記事で取り上げています)
有名な広隆寺や、あの東映太秦映画村のそばに鎮座する、近畿地方に幾つかある「天照御魂神社」の一つです。略して「木島神社」(鎮座地の旧称による)とか、境内社の養蚕神社が有名なことから「蚕の社」などと呼ばれています。
下鴨神社(賀茂御祖神社)の鎮座地「糺」の名の元祖だという「元糺の池」があったり、その池の中にある「三柱鳥居」(別名、「三つ鳥居」「三面鳥居」「三角鳥居」)が日本唯一の形態(ここに倣って建てられたものはある)だったりする事から、そのご由緒のミステリーが取り沙汰されます。元糺の池は今は枯れてしまっていますが、「都名所図会」では小川の中に立っています。
・境内、元糺の森。京都府の史跡指定を受けています
【秦氏のユダヤ移民説】
三柱鳥居について、明治41年に当時の東京高等師範学校(現筑波大学)の教授佐伯好郎氏が、景教(7世紀前半に中国に入ったキリスト教異端ネストリウス派)の遺跡とする説を発表しました。根拠として、唐の時代782年に建てられた景教碑に゛太秦景教流行中国碑゛と書かれ太秦寺に有った事、正三角を二つ上下逆さに重ねた印がユダヤのダビデの星になる事等々を挙げ、当社を祭祀する秦氏が遠くユダヤの地から日本に流れ来たイスラエルの移民だと考えられたのです。この説は神社の御由緒掲示でも触れられています。
・拝殿。奥に本殿の拝所があります。そしてその左側が三柱鳥居のある元糺の池
景教の移入期について佐伯氏は、「日本書紀」の雄略紀で、180種の秦の民を率いる秦酒公が税として上質の゛絹゛をうず高く積んだので゛禹豆麻佐゛姓を賜ったという記述から、その5世紀後半と考えますが、谷川健一編「日本の神々 山城」で大和岩雄氏は、景教が中国に入ったのは635年、正式に認められたのが638年である以上成り立たないと考えます。また「太秦」漢字表記は「続日本紀」742年に、秦下島麻呂が「太秦公」姓を賜ったとあるのが初見なので、「太秦」表記を根拠に景教説を立てるのも無理だ、と説かれていました。
・拝所から本殿を拝見。社殿全景は次回の記事で
【三柱鳥居と元糺】
三柱鳥居は真北を頂点とした正三角形状に配置されていますが、それぞれの頂点方向(鳥居面に垂直方向)は秦氏にとって重要な山或いはそれに付随する社があると大和氏は説明されます。つまり、東南東(冬至の日の出)方向には稲荷山と伏見稲荷大社、西南西(夏至の日の入)方向には松尾山と松尾大社、さらに北方向は秦氏との関連が考えられる7世紀前半の双ヶ丘古墳群のある双ヶ丘が遥拝できるのです。双ヶ丘古墳群の一ノ丘頂上古墳は、他の古墳に比べて規模が圧倒的に大きく丘頂部に有る事が特徴で、嵯峨野一帯に点在する首長墓の系譜に連なるようです。
・元糺の池の入口にも鳥居があります
さらに、松尾山の反対方向には比叡山の主峰四明岳があり、この比叡山の方向は夏至の日の出方向であり、そしてこの線上に「元糺」と「糺」が乘っている事が注目されます。たしかに「古事記」にも、大山咋神が日枝山と松尾に坐して鳴鏑を用つ神だと書かれています。一方、「タタ(ダ)ス」は只洲で、川が合流する場所という意味があり、実際、賀茂川と高野川の合流する地にある河合神社(下鴨神社の南)は只洲社とも書かれるようです。しかし、他の川の合流地でタダスと言う例は他にみられません。これよりタダ+洲ではなく、日枝山から夏至の゛朝日の直刺す(タダサス)」からタダスになっただろうと大和氏は推測されてました。この地域の古墳の分布や神社としての新旧から、木島神社の地が秦氏が先に居た地であり、「元」にふさわしい、となります。
・元糺の池と三柱鳥居
【ご祭神、神階】
「神祇志料」は他の天照御魂神社同様、ご祭神を天火明命としますが、秦氏と天火明命は直接結びつかないので、他の天照御魂社に合わせた為だろうと大和氏は書かれます。さらに、元糺の池に天日矛命の日光感情伝承のアグ沼を連想されます。夏至・冬至の日の出方向と鎮座地が強く関係する事では、確かに茨木市の新屋坐天照御魂神社も同様でした。大和氏は、太陽信仰は朝鮮の新羅系から入ってきたと考えられているので、秦氏が加羅・新羅系である事と合うという事です。
・元糺の池から流れ出る流路が設けられています。祭祀のある時は地下水をポンプで汲むそうです
「神社明細帳」はご祭神を、天御中主神、邇邇芸命、穂々出見命、鸕鶿草葺不合命としており、神社の掲示でもこのご祭神とされています。神階は、1043年には正一位に上りつめました。1179年成立の「梁塵秘抄」の歌からは、伏見稲荷大社、石清水八幡宮とならぶ著名な神社だった事がわかるそうです。
・三柱鳥居。中央の組石は本殿ご祭神の神座であり宇宙の中心、とのご由緒です
【伝承】
大和氏は秦氏と天火明命は結びつかないと言われてましたが、東出雲王国伝承では、海部氏(&尾張氏)のアマ氏がそもそも秦の時代に渡来していた原ハタ氏と言うべき人たちとの説明で、その始祖が天火明命なのだから、結びつく、となります。
さらに、斎木雲州氏は「出雲と大和のあけぼの」で、そのハタ氏は秦に滅ぼされた斉の国の子孫で、斉の王族が゛消えたユダヤ十氏族゛とされた人々だとの言い伝えがある、と書かれていました。「出雲王国とヤマト政権」で富士林雅樹氏も全く同じ表現で、言い伝えとして説明されていますが、道教はユダヤ教の影響を受けたとも云います。さらに斎木氏は、丹後の真名井神社の篭目の紋章はイスラエルのダビデの星と関係するかもしれない、と書かれていましたが、あくまで゛かもしれない゛であり、理由は書かれていません。
・三柱鳥居。少し違う方向から。元糺の森共々、神威に満ちています・・・
アマ氏が原ハタ氏だとする伝承は、東出雲王国の分家登美氏が海部氏と葛城王国を運営したという話と、雄略帝の時期以降に賀茂氏と秦氏が揃って山城(や摂津三島)に移っていく説と奇麗につながるように見えて魅力的です。ただ、そのハタ氏がユダヤの子孫だとする話はとても面白いですが、何とも言えないです。富士林雅樹氏は、斉の国のユダヤ人の家から海童(童男、童女)を集めた、など様々なユダヤ由来のエピソードを書かれていますが、なにせ古代Chinaなど外国の話でありChinaの学者の研究も参考にしてるとの事で、さすがに根拠資料を確認したくなってきます。やはり、イスラエル・ユダヤ由来伝承はわが国の現状では学問的に捉えにくいようで、古代史ロマンだと心得て楽しんでおいた方が良さそうに感じています。
・近隣の方々が頻繁に訪れておられ、今も篤く信仰されてることがわかりました
東北大学名誉教授であられる田中英道氏の「発見!ユダヤ人埴輪の謎を解く」を最近面白く読みました。千葉県の柴山古墳など関東に見られる、耳の前の毛を伸ばしてカールさせる「ペイオト」のようなものの付いた人物埴輪を取り上げ、最近のユダヤ人の写真と並べて、これらが当時渡来したユダヤ人を現したものであり、さらに秦氏と結びつけられます。個人的には、古代の同時期のユダヤ人の風貌について、分かっている事を絵図などでもう少し丁寧に説明してほしいと感じました。田中氏はユダヤ人埴輪によって、否定的に見られてきた上記の佐伯説が蓋然性を帯びて来た、と書かれてますが、冷静に見てしまいます。イスラエルからのユダヤ人の移動経緯など興味深いですが、欧米などでどう論じられてるかの根拠文献などの提示はなく、伝承話のような語り口でやはりロマン的です。なお、本書では徐福には触れられておらず、始皇帝はユダヤ系だった可能性に触れるものの、「秦」はローマ帝国の「大秦」から取られたとしています。
三柱鳥居は大神神社の三ツ鳥居との関連が囁かれ、それは違うとの説明もされてたりするそうですが、鳥居本体と同じく八角形(出雲伝承は出雲の聖数とします。゛八雲たつ゛の八です)である下の写真の石標も含めて見ると、やはり出雲~賀茂氏(・・・八咫烏)との関りを感じます。三ツ鳥居の二次元の面と、三柱鳥居の三次元の構造物を見ると、それは当時まさに革新的な信仰の変化だったように見えて、やはり同類とはならないのでしょうね。
・三柱鳥居前にある石標。鳥居本体同様、出雲の聖数の八角形です
急に妙な話になりますが、もうすぐライブ・ツアーを引退(コロナで中断中)する歴史的ロック・バンド、キッスのキー・マン、ジーン・シモンズとポール・スタンレーはユダヤ移民です。以前NHKで放送されたシモンズ氏("God of Thunder"で血を吐くコウモリ男)の密着番組でも、ライブ会場を見せて回る時の撮影スタッフの安全に対する気遣いが尋常でなかったり、とても冷静に徹底して考える様子がうかがえて、やはり日本人と共通する部分が有る感じがします。シモンズ氏のワーカホリックぶりも描かれていました。だから、ユダヤと極東の日本がどこかでつながっていた、と言う話にとてもロマンを感じます。遺伝子の型が近いとかも聞きますが、いつかはっきりする時が来るのでしょうか。
(参考文献:木島坐天照御魂神社ご由緒掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 大和/山城」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、梅原猛「葬られた王朝」、田中英道「発見!ユダヤ人埴輪の謎を解く」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」その他大元出版書籍、NHKストーリーズ「誇り高き悪魔 KISSジーン・シモンズ」)