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(2023.5.4/2024.11.28写真更新)
住吉大社と並ぶ摂津国一之宮で、御堂筋からすぐの都会のど真ん中に鎮座します。境内には大阪府神社庁の立派なビルが併設し社務所も兼ねています。神殿は近代的なコンクリート造です。今は”ざまさん”と呼ばれる事が多いようですが、神社のご由緒にもあるとおり”いかすり”が正式な読み方です。
【ご祭神】
ご祭神は坐摩大神とありますが、これは総称で、生井神、福井神、綱長井神、波比岐神、阿須波神の五座の事です。今は居住地を守ってくれる神様とされてるようですが、「延喜式」神名帳には宮中神として、”神祀官西院坐御巫等祭神十三坐”の中に”坐摩巫祭神五坐”と有るのです。一方、「延喜式」神名帳で、神社としては一坐としている事から、ご祭神を創建に関わるとされる神功皇后とする、「和漢三才図会」のような古典も有ります。
・手水舎も近代的。近づくと水が出ます
五坐がそれぞれどんな神なのかは諸説あるようですが、生井神、福井神、綱長井神が井泉の神で、生き生きと栄え、生命が長く続く事を願う井で”日の御子”の生誕に関わり、波比岐神、阿須波神は、宅地やその区画・境界を掌る大宮地の神だと言えるようです。「延喜式」臨時祭には、御門巫、生島巫などがいる宮中の巫の内、坐摩巫だけは都下国造の7才以上の童女に限っています。
・拝殿。
コンクリート造りの社殿
【祭祀氏族】
都下国造は坐摩神社の宮司の祖で、最近は渡辺姓ですが、数代前までは都下(つげ)を名乗っていたそうです。この都下国造が祀る坐摩神社の所在地は都下野と呼ばれました。この名は、朝鮮の「三国遺事」で、新羅から日本へ来た延鳥郎・細鳥女が、元々居た日本海に東面する地、都祈野と同じだと言います。この都下、さらに都祁、闘鶏などはいずれも日の出を意味しますが、允恭記に載る大和の闘鶏国とは別です(ただ、無関係ではないよう)。
・本殿
【宮中神となった坐摩巫】
大和岩雄氏は、細鳥女がやって来たルートや織った細絹から、大比留女を連想され、そして、阿加流比売が難波にやってくる天之日矛伝承の日光感精説話に結び付けられます。それは日の妻であり、巫女であり、これが坐摩巫に代表されると説明されています。「摂津国風土記」にも応神天皇の時期、新羅の女神が筑紫国の比売島を経由し、摂津の比売島まで来る話があり、共通するのです。
・摂末社が並んで鎮座しています
・御神紋の鷺丸にちなんださぎ草を栽培
つまり、この地が、神社の創建にかかわる神功皇后を端緒とする、5世紀の難波・河内王朝の重要な聖地であり、この時難波の宮で祀られていた神が、大和や山城に移っても宮中神として祀られ続けたため、坐摩の神が宮廷の土地を守護する神となったのであり、だからこの神を祀る巫はかつて難波の地で祀っていた都下国造の子女に限られた、と考えられるという事です。そうすると、河内王朝から始まった重要な祭祀が有るという事で、ここで何らかの政権の区切りが有ると、個人的には感じられます。
【坐摩神社行宮】
ところで、ここでいう神社の鎮座地とは現在地ではなく、いわゆる御旅所である”坐摩神社行宮”がある、大阪市中央区石町あたりの旧鎮座地です。石町の地名は、ここに”神功皇后の鎮座石”に由来すると「摂津志」「摂陽群談」は書いているそうです。現在地に移ったのは1582年、豊臣秀吉の大阪城築城の為、替地を命ぜられた為です。現在、旧鎮座地の方も純粋なビジネス街の中、異彩を誇っています。
・文字通りビルの谷間に鎮座
2024年11月時点。新しく整備されていました
「住吉大社神代記」には、坐摩の神が”住吉の大神の御魂”で、神主津守宿禰に祀らせ、祝に為加志利津守連等を奉仕らしむ、と書かれています。共に神功皇后が創建に関わるとされ、住吉大社の創建経緯も謎が有るので関係が気になりますね。
2024年11月
【祭祀】
坐摩神社の例祭日は4月22日で一名献花祭といい、社伝によれば神功皇后が帰還して筑紫で応神天皇を生んだ時、花を懸けて坐摩の神を祀られた故事によると言います。このような皇后の出産に関わる事が坐摩の神の性格を示しており、現在も安産の神とされます。近年でも、明治天皇自身の安産祈願がなされ、1868年にはその明治天皇が当社を御親拝され、相撲を天覧された事は有名です。
・見えにくいのですが、割れ目というか網で固められてるようにも見えました
2024年11月。鎮座石がガラスのショーケースに入り見やすくなりました
旧鎮座地近くの八軒屋。かつての都下(ツゲ)、そして渡辺の地
【伝承】
天日矛伝承は、古事記では応神天皇の段の最後に、日本書紀では垂仁天皇紀に、その来訪が記されます。共に新羅の王子としていますが、東出雲王国伝承は違うと云います。2世紀、新羅の前身、辰韓の王子だったというのです。難波には行ってなく、追いかけた姫も存在しません。兄弟の後継王争いを避けるために、国を出され、出雲王国に漂着しました。出雲王国は日矛の上陸を認めず、やむなく船で東へ移動、最終的に豊岡で亡くなり、今の出石神社に祀られました。この話は、先の戦時中に出会った、富当雄氏と出石神社の社家で日矛命の直系の子孫である、神床二等兵との間でも確認されたと書かれています(「出雲と蘇我王国」)。
記紀の天日矛伝承や韓国から難波への姫の来訪伝承は、東出雲伝承から想像すると、記紀製作当時は影響力が強かったと思しき息長氏系の意向で、家系のヒロイン神功皇后の凱旋ルートを流用し、河内王朝時代に百済、新羅から多くやって来た渡来人の影響度や自家の始祖である日矛の存在感を強調したのかな、と感じました。(日光感情説話に端を発するとする太陽信仰の考え方について、八尾市の天照大神高座神社の記事でも取り上げています)。
午後5時で閉門です
【三ツ鳥居】
それにしても、なぜ、大神神社のサイノカミの三ツ鳥居がこの神社にあるのでしょうか。。。東出雲伝承では語られていませんでした。河内王朝より前の三輪王朝などの祭祀との継続性を示したのでしょうか?豊国宇佐家の伝承を伝えた「古伝が語る古代史」で宇佐公康氏がこの時期の祭祀について述べられています。つまり、応神天皇はそもそも菟狭(宇佐)族の族長だった御方でであり、中央に進出してから、゛菟狭氏に関わる応神天皇の王朝の成立にともなって、原大和王朝以来、崇神王朝に最も盛んに行われてた物部氏のシャーマニズム(石上神宮の記事で鎮魂祭に触れました)をはじめ、和邇氏や大神氏のシャーマニズムと混交し、宮中祭祀として統一゛したらしいです。ここでの、応神帝に宇佐氏の血筋が有る点は、出雲伝承とも一致しています。
そういえば、生井神、福井神、綱長井神は、出雲の御井神社に信仰があり、大和にも同名の神社があります。つまり、前例を引き継ぎ、踏襲して安心感を担保したということでしょうか。そうすると、王朝が変わっても前方後円墳の基本形が維持されるのは不思議ではないと思えます。
(参考文献:坐摩神社ご由緒略記、谷川健一編「日本の神々」、斎木雲州氏「出雲と蘇我王国」等大元出版各書籍、宇佐公康氏「古伝が語る古代史」)