摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

丹比神社(堺市美原区多治井) 天火明命を信仰する、黒姫山古墳を築いた武勇の氏族

2025年02月01日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

[ たんぴじんじゃ ]

 

大阪の南河内地域の、黒姫山古墳に近接して鎮座している式内社です。当社に尾張氏系氏族が関わる説があり、それもいろいろと諸説が入り混じっているらしいと知り興味が湧いてきたタイミングで、ようやく参拝させていただくことにしました。黒姫山古墳にも行き、みはら歴史博物館では多数の鋲留短甲を拝見出来ました。

 

往年の馬場先である正面の参道

 

【ご祭神・ご由緒】

神社のホームページには、ご祭神として火明命、瑞歯別命とあります。さらに合祀により菅原道真公、大山祇命、伊邪那岐命、伊邪那美命、凡河内倭女姫命を祀るとされています。特に火明命を多治比氏の祖神と明記し、さらに火明命のお生まれになった時の御言葉も記すなど、この神への強い信仰心を感じさせます。

しかし、「日本の神々 河内」での古田実氏によると、その執筆当時は瑞歯別命(反正天皇)の一柱だけだったようで、しかも、この周辺が宣化天皇を始祖とする皇別氏族の多治比真人一族の本貫地だったことから、当初は多治比(丹比)氏の祖神を祀っていたと思われる、とされています。瑞歯別命が祀られたのは、記紀において河内の丹比に天皇の柴垣(籬)宮があった等の伝承が存在する事から、後世に付会したのだろうということになっているのです。

古田氏はそれを裏付ける過去の考証として、「河内志」の゛丹比真人の氏神多治比王゛、「神社覈録」の゛多治比真人氏の祖神゛、「神祇志料」の゛多治比君の祖神、あんずるに多治比君の祖、加美恵波王の御母は、川内国人なる故、其の由縁にてこの地に住めるより其の祖神を祭れる゛、「大日本神祀志」の゛多治比君の祖、上殖葉皇子゛、「地理志料」の゛丹比氏の祖、上殖葉皇子゛などの記述を引用し、多治比真人の祖神を祀っていたとする説が有力だとします。反正天皇の伝承地でもある清泉「瑞井」のあったこの地に多治比氏が創祀しただろう、という事です。

 

境内

 

【反正天皇の伝承】

当社の拝殿の斜め前には井戸があり、その由緒を説明する立派な石碑があります。これが「日本書紀」に見える「瑞井」であるとし、仁徳天皇と磐の姫の間に生まれた皇女の若松宮が、この井戸の水で産湯を使わしめたという事が伝わっており、それが反正天皇だという事です。ただ、「書紀」では生まれたのが淡路島(ゆかりの神社などあり。ただし、不明との説も)となってますし、「新撰姓氏録」では゛淡路瑞井゛とあるので、天皇の宮があったとする所伝からの信仰のような感じがします。また、明治40年に丹比神社に合祀された式内櫟本神社(旧鎮座地には小さな祠がある)に関わる地元の伝承では、応神天皇の頃に一本の巨大な櫟の木があったのですが、反正天皇が当地に行幸した時、その巨木に驚いて「丹比の櫟本」と命名されたという話も有るようです。

 

瑞井

 

【祭祀氏族】

「日本古代氏族事典」で多治比(丹比、多治、蝮など)氏に関しては、2つの系統の説明がされています。一つは上記した真人姓の多治比公で、宣化天皇の皇子上殖葉皇子を祖とする氏族です。「古事記」宣化天皇段に゛恵波王者<韋那君。多治比君之祖也>゛、「日本書紀」宣化天皇条に゛上殖葉皇子。是丹比公。韋那公。凡二姓之先也゛とあります。さらに「新撰姓氏録」右京皇別には、゛多治真人。宣化天皇皇子賀美恵波王之後也゛とも見えます。とくに遣唐使などで対外交渉の任に当たった者が多いそうです。

 

拝殿

 

一方、現在の当社がご祭神として篤く語っている火明命を祖とするのがもう一方の丹比連(天武天皇の代に宿禰に)氏で、こちらは尾張氏の同系氏族となります。名代部の一つだった丹比部の中央伴造だった氏族。「姓氏録」では、反正天皇が生れた時に色鳴宿祢に丹比部の戸を治めさせ丹比連となったとあります。また「氏族事典」は、宮城十二門の一つ丹治比門の門号氏族として軍事的役割をしていたのがこの氏族だと説明します。そして、本拠地が河内国丹比郡、即ち当地だということで、当社や近くの黒姫山古墳(五世紀中頃の前方後円墳)、掘立柱建物跡の平尾遺跡がある事に触れられます。ただ、カッコ付きで黒姫山古墳以外は上記の多治比真人氏説がある事も一応追記されてはいます。このように当社に関わるのが真人系か連系が、以上見た限りでは混とんとしているようです。

丹比連としては、和泉国神別、伊予国にも丹比連氏が分布しています。さらに、「姓氏録」右京神別下には、丹比連氏の後の一支族と考えられる丹比新家連氏の後裔である丹比宿禰氏が載ります。丹比新家(屋)連氏といえば、摂津三島、茨木市に鎮座する新屋坐天照御魂神社の祭祀氏族との説がある三島ゆかりの氏族です。

 

社殿。樹齢千年をこえるという楠の神木が巨大です

 

【神階・幣帛等】

「続日本後紀」847年には、゛河内国丹比郡の無位丹比神に従五位下を授く゛と見えるのを皮切りに、「文徳実録」850年には従五位上、そして「三代実録」859年には正五位下と矢継ぎ早に昇進していきます。そして同じ年に、丹比真人縄主を丹比社使として遣わせたことが記されていて、この段階で丹比神社と多治比真人一族の関係性を知る事ができると、先の古田氏は述べられます。

 

黒姫山古墳。前方部から

 

【黒姫山古墳】

墳丘長114m、二段築成の前方後円墳で周囲に15~20mの盾型の堀と周庭帯が巡ります。5世紀中頃の築造とされます。百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間地点にあるという孤高の古墳で、「古市古墳群をあるく」で久世仁士氏は、百舌鳥・古市古墳群を考える上で欠かすことは出来ないと言います。前方部の竪穴式石槨から24領の甲冑のほか刀、剣、矛、鏃などが出土。短甲は全て鋲留式です。一つの古墳から出土した甲冑の数は全国一というスゴイ古墳です。この石槨は人体埋葬の形跡がなく、副葬品用の施設です。後円部の埋葬施設は盗掘で破壊されていましたが、その上に家など形象埴輪があったことや、刳り抜き式石棺があったことも判明しています。

 

前方部の中央だけ築造当時風に復元されています

 

古墳の周りには、現存しませんが6基の小規模な古墳が点在していました。また、田圃の畔から北西に同規模の古墳がもう一基あった可能性も指摘され、そうであればこの地にいた勢力は百舌鳥と古市の仲介役として想像以上に大きい力を持っていたと思われると、久世氏は述べられています。そして久世氏はその氏族として、丹比氏を候補に挙げられていました。みはら歴史博物館も、大量の武具の埋葬から宮城十二門の氏族となっていく丹比氏だろうと説明しています。この丹比氏は中期古墳の年代なので真人系はあり得ず、丹比連を指すと理解できます。なお、隣に阪和自動車道が通り、下の一般道が不規則にカーブしていますが、これは古墳の堀を避けて建設されたからとの事です。

 

みはら歴史博物館の短甲や冑の展示

 

【尾張氏系丹比氏の謎】

「姓氏録」での丹比宿祢の記事は結構分量が多めで、火明命の三世孫天忍男命の後であり、武額赤命の七世孫である御殿宿祢の男が色鳴宿祢である事が見えます。「先代旧事本紀」では、武額赤命は天忍男命の子であり、第5代孝昭天皇の妃だった世襲足姫命や、瀛津世襲命(゛亦葛木津彦と云ふ゛つまり、葛城にいた人)と兄弟にあたる御方です。そこから七世はなれるところが何とも言えませんが、黒姫山古墳の存在は確かですし、天皇が宮を造るという所伝が生れている事からも、この地域に強い勢力が古くからいたんだろうとと思いたくなります。古墳が出来るより先に多くの人が集まっていて祭祀の場があったはずしょうから。後から優越的な立場で多治比真人系の人達が関わり出した、とかではないのでしょうか…

 

本殿は小ぶりな神明造

 

火明命を祖とする尾張氏系氏族にはいろいろ議論があるということで、最近の学者さんの説に触れてみたいと思い、加藤謙吉氏の「尾張氏・尾張国造と尾張地域の豪族」という論考を読みました。加藤氏のお考えでは、尾張氏は5世紀代から愛知県の味美古墳群を造営したグループが熱田台地に勢力を拡大し、海部氏など地域の豪族と系譜的同祖関係を結び、継体帝の即位の頃か以降に中央(京と畿内)に進出したとされていました。その中で河内国に同じく火明命を祖とする氏族が丹比連氏を含めて七氏もおり、尾張氏の中央進出が活発で、中でも河内が尾張氏の最重要拠点の一つと見られるとの事でした。丹比氏など河内の氏族についてはそれ以上語られていませんでしたが、文脈からは尾張氏と一緒に中央へ進出したか、その時期に新たに尾張氏と同祖関係を築いたとのお考えだと読み取れます。

しかし、そうであれば、なぜ火明命を祖とする氏族が祀る天照御魂社群(全て古い由緒を感じさせる式内社)が近畿とその西にしかなく、出身地の愛知県に鎮座しないのかが理解しにくいです。さらには、天照御魂社の一つである鏡作坐天照御魂神社の御神体は三角縁神獣鏡の内区だけが残ったもので、鏡制作時の原型と見るのが有力です。そして、その同范鏡と見られる鏡が、愛知県の4世紀の古墳で発掘されているのですが、これをどう説明するのかなど疑問が残ります。学者さんの論考では簡単に覆せない信仰の力である、などと言いたくなります。

 

夜泣き石伝説のある五輪塔。反正天皇が死を悲しんだ仁徳天皇陵を向いているとのこと

 

【伝承】

「古代海部氏の系図」で金久与市氏は、尾張氏に関する説明の最後に、もとは丹後の海部氏が大和国葛城の高尾張邑に移住し(※葛木津彦となって・・・)、「高尾張」氏を名乗り四世紀ごろ尾張へ移住したものといえる、と唐突に書かれます。おそらく、「海部氏系図」の調査で交流のあった海部氏八十一代穀定宮司かあるいは第八十二代光彦宮司からの伝えを書かれたと想像します。また、大元出版の出雲伝承でも、凡そ同様な伝承が述べられますが、大和から東海地方への大きな移動は、弥生時代中期の初回と、その後の紀元後2世紀~3世紀頃にもあり、2回目では摂津三島を経由したと説明されます。後者では、三島から北方の丹後へ戻る人たちと、東海方面に行く人たちが別れたらしいです。

紀元0年頃の高槻市の古曽部・芝谷遺跡では、丹後地方と同様な埋葬形式の墳墓が発掘され、丹後の人が高槻に来ている可能性が指摘されていますので、この高槻市の人たちを頼って大和から来たのかしら、とのロマンが湧きます。一方、河内の丹比連に関しては、海部(アマ)氏が大和に移住した時は、まず葛城に入ったらしいので、そこから早い時期に西方の河内や和泉地方に広がった人がいた可能性~泉穴師神社池上曽根遺跡~を想像したいです。具体的な流れは分かりませんが、そうやって古くからともかく近畿各地に移動・分散していた丹後本貫の人々(アマ氏系≒尾張氏系)の連帯意識が、平安時代以降の制度での氏族関係のアピールとなって行ったと思いたいところです。

 

ご神木の太さが分かります

 

(参考文献:丹比神社公式HP・境内説明、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、久世仁士「古市古墳群をあるく」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、加藤謙吉「日本古代の豪族と渡来人」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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