今回は、ただの独り言、です。
高槻市内の、JR京都線、摂津富田(せっつとんだ)駅と、阪急京都線、富田(とんだ)駅の近くに、「登美の里」町があります。地域のスーパーや小学校もある、ごく普通の住宅街です。神社や寺はありません。
ところが、古代史を知りだすと、この「登美」の字が少し気になって来ます。例えば、こんな感じです。
- 神武天皇のヤマト入りに最後まで抵抗したナガスネヒコは、登美の地に住む登美彦、とも書かれている
- ヤマト姫が伊勢神宮の内宮を創建する前に、伊雑を訪れ、伊佐波登美命の協力を得ている
- 奈良のあの纏向や三輪山の近くにある鳥見山は、以前は登美山と書かれており、そのように銘記した石碑がある(桜井市の宗像神社、なお、鳥見山は三輪山の南と東の2つあります)。
- 出雲から大和にやってきた野見宿祢は、播磨風土記では土師弩美宿祢と書かれている。野見宿祢と同一人物とわかるのでノミと読まれているが、弩をノと読むのが正しいか?一方で、トミと読む方もいる。
登美という表記・地名は、それほどよく見かけるものではないと思いますが、神武東征や伊勢神宮の創建という古代史の重大局面でこの表記が出てくるというのは、やはり何か共通する大きな集団めいたものがあると感じられるのです。しかし、一般の古代史の論考で、この「登美」のことが取りざたされるのを見ていません。たまたまそういう名だっただけでしょうか。
特に、「登美の里」のある高槻市民は、チョッと気にして良いのではないかと思っています。
●この記事の続きはこちらに記載しました。さらに”登美の里町”命名に関しても上宮天満宮の記事の中で触れました。