摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

「安満遺跡の発展と弥生時代の高槻」 摂津三島の弥生遺跡

2018年09月22日 | 高槻近郊・東摂津


●安満宮山古墳については、コチラの記事で特に青銅鏡に関して触れました

古代遺跡を巡っていきます、と言いましても、それほどしょっちゅう行くわけではありませんので、過去に聴講した講演や、散策した遺跡も、おさらいがてらアップしたいと思います。



今回は、今年3月11日に、阿武野コミュニティーセンターという住宅街にある公民館で催された講演会で学んだ内容をご紹介します。講師は、今城塚古代歴史館としろあと歴史館、両方の特別館長、高槻考古学調査研究の第一人者であられ著書も多数、の森田克行先生です。

3回シリーズの最後だったようで、この回では最新の調査も交えて、高槻市内、三島の弥生遺跡の発展盛衰の経緯を一通り語っていただきました。発掘当時のエピソードも交え、とても面白いお話でした。頂いた資料のまとめを元に、私なりに興味深く学び理解した事を記載します。この最後の時期が、丁度、ヤマタイ国の時期になりますね。



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 古来、淀川が人々の往来、物資の流通、情報の伝搬など、まさに大動脈としての役割を果たしてきたことは周知の事実である。しかし実際には、淀川縁の弥生遺跡は存外少なく、多くは淀川に注ぎ込む中小の河川(桧尾川、芥川、女瀬川、安威川、佐保川)を通じて展開している。その中央部には高燥な富田台地が広がり、弥生人たちの生活の舞台となっている。


1、弥生時代前期の環濠集落の様相

三島では前期後半になると、安満(BC.500年、以下も"遺跡"省略)と東奈良の拠点集落以外にも、芥川、大蔵司、芝生、目垣など低湿地を中心に村が出現するが、安満のような環濠をめぐらせた様子はない。



2、弥生時代前期から中期にかけての集落動向

安満と東奈良が中期以降も引き続き環濠を掘削し、順調に拡大する。

中期前半、安満の周辺では低位段丘に津之江南が進出し、郡家川西では濠が掘削され、低丘陵地では天神山(BC.200年)、塚原で集落が拓かれる一方、淀川縁の低湿地に南から順に目垣、芝生、梶原南、神内の集落が成立ないし発展している。

やや時期は降るが、安満の北にある安満北を引き継ぐ紅茸山南が出現し、成合で出土した翡翠の勾玉などは記憶に新しい。芝生のアメリカ式石鏃も北陸からもたらされたもので、淀川水運のスケールの大きさを反映。

活発に集落が展開する経過のなか、拠点集落の安満で環濠の解体の動きがあり、この同時的な現象を有機的に理解する社会環境の変化を読み取る必要がある。



3、弥生時代後期前半の高地と低地の大集落

後期になると天神山丘陵の高所で確認された大規模環濠集落の古曽部・芝谷(BC.0)が特筆される。安満天神山から大挙移動してきた人たちが、急峻な尾根の裾部に環濠をめぐらせ、斜面地に多くの住居を営む、きわめて特異な集落である。

 遺構は3期に区分されるも、存続期間はかなり限定され、石器類を残存するが再生品、二次加工品が目立ち、逆に鉄器には剣、斧、鏃、刃子、ヤリガンナなど豊富で、利器交代の象徴ともなっている。

この頃、安満山山塊東南部の尾根に見張り場的な高地性集落としては萩之庄がある。また古曽部・芝谷の廃絶に前後して、芥川下流にほとんど石器を保持しない芝生が格段に発達する。ムラの縁辺には濠で区分された竪穴の工房があり、鋳離しの銅鏃をはじめ、環状の銅釧や砥石が出土している。また芥川では、方格規矩鏡や銅鐸が検出される。

孤高の古曽部・芝谷が突出するも、大規模な高地性集落の出現と見張場的な遺跡、さらには低地部での青銅器生産など、地域の社会環境に即応した集落の展開がみられる。



4、弥生時代後期後半の新展開

富田台地上の郡家川西が新たに灌漑用水路を掘削して再開発され、中核的な集落として発展する。また芥川を東に左岸の沖積地に大蔵司が進出、桧尾川左岸の丘陵一帯では紅茸山が出現する。安満はこの時期、最後の華を迎え、安満宮山古墳(三角縁神獣鏡や青龍3年銘方格規矩四神鏡など青銅鏡5面等が検出)が営まれる。

この時期は、急速に肥大化する郡家川西を除けば、基本的に両地域との小規模な集落遺跡が散在するといった傾向がうかがえる。郡家川西がひとり際立つのは、富田台地での安定した生産基盤によるものであり、のちには地域の勢力を糾合し、弁天山古墳(AD.250)を経営する母胎となっていく。


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以上のように、多くの遺跡が発掘されている高槻の中で、安満遺跡とともに画期的な遺跡が、古曽部・芝谷遺跡といえるでしょう。資料の中にも、1992年の発掘当時の新聞記事のコピーが掲載されていて、”近畿の「吉野ヶ里」…」”、(倭国大乱の)”戦乱に明け暮れた1,2世紀を象徴する遺跡がベールをぬいだ”などの興奮気味の文面が見受けられます。現地説明会にも相当な人数のファンが訪れたそうです。でも、BC.0年だから、2世紀の倭大乱とは時期が合わないんですけどね。これだけの遺跡ですから、森田先生としても残せれば、との思いも強かったそうですが、残念ながら現在は住宅地になって面影はありません。

それにしてもやはり、これらの中で最も有名な安満遺跡や安満宮山古墳の地名にある言葉「アマ」が、この地の古代史の中での重要性を示唆しているように思えてなりません。森田先生も、2014年の今城塚古代博物館で催された特別展「淀川中流域の弥生文化」の図録の巻頭記事に、以下のような思いを述べられておりますので、転載させていただきます。


「この淀川両岸地域を一体的に捉えるうえで象徴的な名辞は「アマ」である。「アマ」の本義は海人であり、直接的な意味は漁労民であろうが、その本質の内には水運に携わる人々や集団のイメージがある。実に、この淀川中流域には、右岸の桧尾川沿いに安満(アマ)と天川(アマガワ)の地名が現存し、左岸には天野川(アマノガワ)が存在する。 安満は旧桧尾川が形成した扇状地にある弥生時代の拠点集落であり、その下流に天川の集落が存在する。(中略) いずれにしても、淀川中流域の両岸の地名、川名に、水運と交易の表微である「アマ」が息づいているいつのはけっして偶然ではないだろう 」


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