1478年4月26日、フィレンツェのドゥオーモを舞台にした、
メディチ家の若手当主として台頭しつつある
ロレンツォとジュリアーノ兄弟の暗殺を謀ったパッツィ家の陰謀。
この陰謀によりジュリアーノは他界、
ロレンツォは命を取り留めます。
半分失敗に終わった陰謀後、
首謀者とされるパッツィ家を中心に
暗殺グループは徹底的に追跡・処刑され、
メディチ家はその後の地位確立に
いっそうの力を注ぐことになります。
どの時代にも陰謀事件の裏には
複雑な政治的な思惑が関わっていますが、
もちろん上記のパッツィ家の陰謀も複雑な背景がありました。
1400年代後半のイタリアは小さな自治都市国家の集まり。
各都市で異なった政治体制を持ちながら、
それぞれが似通った一種の君主制で成り立っていた時代。
ミラノではスフォルツァ家(gli Sforza)、
フィレンツェではいうまでもなくメディチ家(i Medici)、
ナポリ以南ではアラゴン家(gli Aragonesi)、
ヴェネツィアでは裕福で勢力のある貴族や
商人による寡頭政治、
ローマでは有力な貴族が順番に地位に就く教皇庁。
地方の小さな都市部でも
フェッラーラのエステ家(gli Estensi)、
ウルビーノのモンテフェルトロ家(i Montefeltro)、
リミニのマラテスタ家(i Malatesta)、
マントヴァのゴンザガ家(i Gonzaga)などが台頭し、
傭兵隊の結成などの外交政策を駆使し
機会に合わせて周辺有力都市部との
協力体制を築いていました。
その中でも特に外交手腕に長けていたのは
ウルビーノのモンテフェルトロといわれています。
Federico Montefeltro(フェデリコ・モンテフェルトロ)は
Guidantonio da Montefeltro
(グイダントニオ・ダ・モンテフェルトロ)の
庶子でありながら、父の後を次いで当主となった人物。
義兄弟であり、後継者としての正当な資格を持っていた
オッダントニオ(Oddantonio)が暗殺された陰謀事件を
彼が裏で操っていたことは当時から良く知られており
そのためにフェデリコは「カイン」の俗名をつけられています。
フェデリコは傭兵を生業としており、自ら傭兵隊を組み
周辺の強国へのサービス提供を行っていました。
彼は傭兵隊派遣の期間と目的、装備などを元に
より細かい料金表を作成し、
非常に巧みに外交交渉を行ったといわれています。
彼は公的にはフィレンツェのメディチ家との友好関係を主張し
メディチ家と常に友好な関係を築いていました。
しかし、同時に、先のパッツィ家の陰謀の存在を
敏腕傭兵隊長として良く知っていたにもかかわらず、
メディチ家に一切情報を渡しませんでした。
微妙なバランスの上に成り立っていた
都市国家間の関係をよく読み
自分に有利な流れに乗るのが
当時の君主にとっての
最重要項目であったことは間違いありません。
メディチ家への嫌悪感を示し、
フィレンツェの専制体制の覆しを狙う
シスト4世が1471年教皇の座に就きます。
教皇庁の財産を管理する銀行には
メディチ銀行も含まれていましたが
その変更も含め、
メディチ家の勢力を削るために様々な策を練ります。
当時教皇庁はエミリア・ロマーニャへの勢力拡大を狙っており
そのためにはメディチ家が邪魔であったこと、
そして同じく銀行家のパッツィ家は
教皇庁の北部進出に賛成の立場を取っていたことなどから
シスト4世が企んだのがパッツィ家の陰謀だったのです。
この陰謀の真相を知りながら、
友好関係のあるメディチ家に知らせなかったフェデリコは
教皇庁のエミリア・ロマーニャ進出により
自分も多少の恩恵にあやかれると考えたのかもしれません。
しかし、陰謀は失敗に終り、陰謀の表にたったパッツィ家が
全面的にその罪を負う形で終着。
陰謀失敗後はフェデリコはロレンツォに対し
引き続き友人として手紙を書き、
陰謀無関係の立場を保持します。
一方ロレンツォは首謀グループの聞き込みから
フェデリコ自身がこの陰謀事件に
足を染めていたことを知っていましたが、
あえてそれを口に出さず
フェデリコの話を信じるふりをしています。
それは当時の政治的バランスから考えて
メディチ家が孤立することを避けるためであり、
フェデリコのような有能な傭兵隊長を敵に回すことは
自分にとって不利であると判断したからに他ありません。
陰謀の処理などにも不満を抱えていた教皇庁が
メディチ抑圧に動き出す前に
メディチ家が先手を打って秘密裏に、
ナポリを支配するアラゴン家と同盟関係を結び
自身の保身に努めると
フェデリコもアラゴン家に対し、
このメディチ家との協力体制同意による
フィレンツェ包囲・占拠は無意味であることを
徹底して道理的に説明し、
フィレンツェの自治を守るための裏役を担っています。
つまり一度はメディチ家を裏切りかけたものの、
状況の変化に合わせて古い友好関係を保ち、
メディチ家に便宜を図ったのです。
ルネッサンスの時代の政治は微妙なバランスの上に成り立ち
そこをどれだけ巧みにやっていくか、
どれだけ上手に立ち振る舞うことができるかが
君主となる人物の持つべき資質のひとつでもあったのです。