モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

"他者の喪失”、"自己の喪失” ホリスティック・メディア空間を考える

2005-10-17 08:54:31 | コミュニケーション-メディア
この妄想の前提は、
刺激・クオリア・イメージ・メタファーが、
相互関連・可変・連携的であり、
個人を超えたデジタル・ファイルへと転写可能であり、
電脳ネットワークばかりではなく、
生活世界、つまり日常行動空間のメディア環境で流通しているという仮説、
過度の境界侵犯をしている仮設により成り立っている。

この妄想のきっかけは、
・10月13日、世界広告主連盟 国際委員会主催のセミナー
「消費者行動をホリスティックに捉えた広告効果測定の確率に向けて」
・雑誌、ユリイカ 10月号 「攻殻機動隊:STAND ALONE COMPLEX」
・書籍「自己組織性と社会」 今田高俊 東京大学出版会 
・書籍「公共性の喪失」 リチャード・セネット 晶文社
などによる。
また、現象面では、
街の眼差し
などの日常の印象による。

この妄想記録の目的は、
マス・メディア、マス・コミュニケーションとバランスをとる、
個人・地域のメディアやコミュニケーションの
仕組みづくりの基礎資料とすること。

妄想の概要は、
「刺激の発現は、苦痛でもあり快楽でもあり、
 刺激の削減は、癒しでもあり、死でもある。
 個体の生存が保障され、
 調整しなければならない他者・社会からの干渉が過少になると、 
 個体は、僅かな刺激の差異を増幅し、極限化することで、
 相互反応できる接点を失い、ナルシズムの
 自爆と自粛へと極端へ向かうようだ。

 現在、個体が嗜好する差異の増幅・極限化という個性化が
 商品市場舞台の上での差異消費として、消耗しやすい危険がある。
 ”環境”、”平和”とか”繋がり”、”親しみ”、”安らぎ”とか、
 静的な安定への憧れを共有できる反面、
 身体が存続するローカルな舞台での、
 他者との間での輻輳した関係を持続した結果の信頼関係を
 築くことが難しくなる。
 他者を失うことにより、自己を失う危険の多い時代、
 私たちは、刺激のシャワーという
 ホリスティック・メディア消費の時代にいる。」 

今後の方向は、
ビジネスとしては、
ホリスティックなメディア効果の測定が、個人の側から、
あるいはクライアント・企業の側から、収集・編集できる時代が予測できるのなら、
地域社会というくくりでの、測定ができ、その手段・仕組みを検証しながら整えることができそうだと、希望をつないだこと。
オタク的には、
STAND ALONE COMPLEX が、電脳ネットワークにとどまらず、
生活行動の中でイメージできたこと。
などでしょうか。

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(前ブログ頭痛 TV プロジェクター 視覚 イメージ クオリアからの続き)

<頭痛>
TV3時間視聴での頭痛は、私という場が、日々の刺激に、
どういう嗜好・志向をもって、反応しているのか、
つまり、どうアフォードしているのかということと、
私の身体・頭脳がどう対応しているのかということの、
ズレの問題。

今、話題にしたいズレは、
そのときの嗜好・志向としての意味内容、
感覚細胞の受容力のズレではない。

TV画像が映る、ブラウン管・液晶・プラズマ大画面・スクリーンへの投射面、
そして部屋の壁面、さらには、屋外を含む行動空間での
視野・聴覚野の中での刺激シェアの変化なのだ。

つまり、自身のメディア機器の変化に伴う、
個人感覚でのメディア・シェアの変化による、
身体・頭脳の警告として、頭痛をとりあげている。

ただし、痛みが物理的な変化なのか、神経情報の流れでの障害なのか、
それとも変化中の警告として、この刺激生活を続ければ消えるのかは、
ここでは、思考に余るので問題にしない。

<疲労感>
この頭痛の前段階は、疲労感だ。
日々の疲労感とは、身体的運動の疲労感、
臓器の自律運動の不足による栄養要素の疲労感など
エネルギー的なものを除外してみると、
残りは、神経・情報に置き換えられる、
つまり電子的な刺激による”疲労感”が残る。

(ニューロン・ネットワークを、刺激が伝わるには、
電気的な流れと、粒子的な流れ、そして熱エネルギーへの転換などがあるが、
ここでは、いわゆる電気的な流れに限定する。)

この苦痛感ー疲労感の対極は、ズレのない状態、刺激の少なさによる倦怠感などであって、
快楽であるのではない。
これは、刺激の過剰と過少にたいする身体・頭脳の反応の自覚なのだ。
過剰であれば、自己という個体が傷つき・分離分解を始め、拡散する。
過少であれば、自己という殻の表面が収縮し、
気孔・汗腺(これはアナロジー)をふさぎ、
内側に自壊する。

<生命は、>
外に向けた拡散と内に向けた凝縮のバランスをとる、
薄皮一枚による存在になぞらえられる。
刺激でいえば、過剰と過少の間のバランスで成り立っている。

適度の刺激状態が、
”気持ちよさ”、から”なじみ・落ち着き”などであり、
両極への志向が、”感動”と”癒し”なのだ。
別の言い方をすれば、緊張と弛緩の繰り返しだ。

カタストロフィーとは、
自己が拡大し世界を覆いつくす融合することでもあり、
自己が収縮し、世界に溶け込んでしまうことでもある、両極の感覚なのだ。

しかし、人間という個体の生存条件=衣食住を満たし、誰にでも子孫を残すことができる状態が
不安でない状態が、続くと、拡大・収縮するこの社会領域の意識を失うことになる。
逆に、自己の中での刺激の関連:クオリアが、自律し、外郭を超えてゆく錯覚を共有する。
つまり、自己組織化する必要性のなさ、自己生命の場を維持する緊張の不要、自律性の崩壊、
の状態へと進む。

<他者の喪失>
他方、外界と内界の境界の喪失は、他者の喪失へと進む。
他者の中に、自己を感じ、自己の中に他者を感じていれば、
自己からすべて繋がっていられることになる。

そして、自己への刺激を適度にコントロールする、ゲーム感覚という、当事者感覚の喪失が進む。
他者は、居ない。家庭も地域社会も国家も意識に上らない。
”地球生命”という、メタファーに吸収される状態として、
企業組織・国家・地域社会・家族・仲間などが、階層的な入れ子状態ではなく、
そのときのゲーム・ルールという意識上の問題として、扱われる。

これは、自己組織的でストイックなアングロサクソン的個人や、
資本市場での企業、家族的な国家などが跋扈できる、無防備状況の自覚である。
それは、軍事だけではなく、情報競合をする生命体として、無防備なのだ。
その情報混在文化、無防備状態だからこそ、21世紀型の生活文化の兆しが見えるのだが。

<自己の喪失から回帰へ>
そう、「勝手にしやがれ」から、「気狂いピエロ」へ、
自爆できない日本では、何気ない日常の再評価、
その裏に”癒し”から”無常”への回帰を感じます。

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