『マスメディアの「構造」と「空気」-問いかけと問い直しのメディア論』柴山佐利 著 宣伝会議 出版 を読んだ。
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筆者は、
社会はコミュニケーションにより成り立っているとするニコラス・ルーマンの社会システム論に立ち、’情報社会’にはびこる’インフォメーションモデル’の機能的視点を脇きに置き、メディアをかたる。
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そして、近代的自我を、ラカンに沿って'根源的欠如’、’幻想と忘却’に解体し、高密度空間に対して閉じられてしまった低密度空間に主体を放置する。
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<『マスメディアの「構造」と「空気」-問いかけと問い直しのメディア論』柴山佐利 著 宣伝会議 出版 を参照・作図・加筆>
そして、その高密度空間をマス・メディアの可能性位相になぞらえ、’お笑いバラエティ’で召喚し続ける構図を描く。ネット・メディアもまた、アクセス量・ランキングという高圧縮・高密度空間を演出する。
この現位相と可能性位相はデリダに沿って、視聴率・ランキングにて絶えず脱構築され続けられる。
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<『マスメディアの「構造」と「空気」-問いかけと問い直しのメディア論』柴山佐利 著 宣伝会議 出版 を参照・作図・加筆>
メディアとは何?
媒体性とは何?
架橋性・代補・召喚・幻想なのではと筆者はかたる。
スタジオでのお笑いバラエティの増加と伴に、
取材モノ、旅行モノなどなども増えている。
報道とバラエティの境界が曖昧で、心情や意見によるバランス取りは、迂遠なプロパガンダのようでいて、主役は商品サービスのプロモーションの場だと感じてもいる。
現実空間に’降臨’し、’架橋’するのがマスメディアだとすると、
マスメディアの濃密空間を経ないと’リアリティ’を持てない
私たちの’喪失感’を考えてしまう。
しかし、本当に私たちは以前から喪失する中心を持っていたのか?
その中心との対話の喪失を感じているのか?
もともと、万物と共生して流転に生きてきていないのか?
そこでは、自然も生物も社会の中心は求められてこなかったのではないか?
外界の’うつろい’と内界の’うつろい’は、境界無く、空気のように相互陥入してきたのではないか?
明治以来の概念による、言語表現に依存した'理性的・論理的’に全てをゆだねたのではなかった。意識だけで身体や感情をコントロールできると思えば、、武道も茶道も書道も続いてはこなかった。
本来の空気は、身体がその環境とともに対応してきた属する地域に映る、誇張も押しつけも少ない、緩い手がかりではないか?’空気’自体が、新たな地上の’お上’、つまり従わざるを得ない’なにか’を言い表しきったものではない。’空気’を言挙げし、重々しくしておいて、KYとローマ字読みで反転させて、実態を抜き取って、構造を仮構しなおしているのではないか?
筆者のいうマスメディア、ここでは地上波TVの’お笑いバラエティ’が時代を切り取り作る’空気’は、どんなものなのだろう。米国・ハリウッド映画は、その’空気’を作り出してきた。しかし、それははっきりした意図が伺える。
意図もなく直感と視聴率で高密度空間の不寛容な’空気’舞台を蔓延させるなら、’恥’から’いじめ’社会へと、対峙する相手をもてない社会を助長していないのだろうか?相手を意識できなければ、自身も意識できない。残るのは不安。
山本七平が語った’空気’を語るなら、同時に語った’水をさす’ことも考えて欲しい。それは、中から’空気を作る’のでも、’空気を壊す’のでもなく、外からその場に観入してくるものだ。
取り憑かれた舞台の場面転換を催すことは、CMがすでにやっている?
確かに・・・・
CMこそ、降臨している。
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筆者は、
社会はコミュニケーションにより成り立っているとするニコラス・ルーマンの社会システム論に立ち、’情報社会’にはびこる’インフォメーションモデル’の機能的視点を脇きに置き、メディアをかたる。
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そして、近代的自我を、ラカンに沿って'根源的欠如’、’幻想と忘却’に解体し、高密度空間に対して閉じられてしまった低密度空間に主体を放置する。
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<『マスメディアの「構造」と「空気」-問いかけと問い直しのメディア論』柴山佐利 著 宣伝会議 出版 を参照・作図・加筆>
そして、その高密度空間をマス・メディアの可能性位相になぞらえ、’お笑いバラエティ’で召喚し続ける構図を描く。ネット・メディアもまた、アクセス量・ランキングという高圧縮・高密度空間を演出する。
この現位相と可能性位相はデリダに沿って、視聴率・ランキングにて絶えず脱構築され続けられる。
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<『マスメディアの「構造」と「空気」-問いかけと問い直しのメディア論』柴山佐利 著 宣伝会議 出版 を参照・作図・加筆>
メディアとは何?
媒体性とは何?
架橋性・代補・召喚・幻想なのではと筆者はかたる。
スタジオでのお笑いバラエティの増加と伴に、
取材モノ、旅行モノなどなども増えている。
報道とバラエティの境界が曖昧で、心情や意見によるバランス取りは、迂遠なプロパガンダのようでいて、主役は商品サービスのプロモーションの場だと感じてもいる。
現実空間に’降臨’し、’架橋’するのがマスメディアだとすると、
マスメディアの濃密空間を経ないと’リアリティ’を持てない
私たちの’喪失感’を考えてしまう。
しかし、本当に私たちは以前から喪失する中心を持っていたのか?
その中心との対話の喪失を感じているのか?
もともと、万物と共生して流転に生きてきていないのか?
そこでは、自然も生物も社会の中心は求められてこなかったのではないか?
外界の’うつろい’と内界の’うつろい’は、境界無く、空気のように相互陥入してきたのではないか?
明治以来の概念による、言語表現に依存した'理性的・論理的’に全てをゆだねたのではなかった。意識だけで身体や感情をコントロールできると思えば、、武道も茶道も書道も続いてはこなかった。
本来の空気は、身体がその環境とともに対応してきた属する地域に映る、誇張も押しつけも少ない、緩い手がかりではないか?’空気’自体が、新たな地上の’お上’、つまり従わざるを得ない’なにか’を言い表しきったものではない。’空気’を言挙げし、重々しくしておいて、KYとローマ字読みで反転させて、実態を抜き取って、構造を仮構しなおしているのではないか?
筆者のいうマスメディア、ここでは地上波TVの’お笑いバラエティ’が時代を切り取り作る’空気’は、どんなものなのだろう。米国・ハリウッド映画は、その’空気’を作り出してきた。しかし、それははっきりした意図が伺える。
意図もなく直感と視聴率で高密度空間の不寛容な’空気’舞台を蔓延させるなら、’恥’から’いじめ’社会へと、対峙する相手をもてない社会を助長していないのだろうか?相手を意識できなければ、自身も意識できない。残るのは不安。
山本七平が語った’空気’を語るなら、同時に語った’水をさす’ことも考えて欲しい。それは、中から’空気を作る’のでも、’空気を壊す’のでもなく、外からその場に観入してくるものだ。
取り憑かれた舞台の場面転換を催すことは、CMがすでにやっている?
確かに・・・・
CMこそ、降臨している。
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