日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

東光山玉蓮寺(本庄市児玉町)

2017-08-24 10:58:17 | 旅行
日蓮聖人のご霊跡を巡る旅、初の埼玉!
埼玉のご霊跡は、佐渡法難の行き帰りに宿泊された場所が中心のようです。

文永8(1271)年9月12日の龍ノ口法難の翌日から1ヶ月、日蓮聖人は厚木・依知の本間重連邸にお預けの身になりました。
星下りの奇瑞などを起こしたのち、10月10日に佐渡に向けて旅立ちました。


その日のうちに久米川に至り、立川家という民家にお泊まりになりました。
↑の画像はグーグルストリートビューに残っている以前の画像です。
残念ながらこの建物は昨年取り壊され、現在は住宅地として開発されています。


佐渡へは主にこの鎌倉古街道の上ツ道などを使われたようです。
新倉(和光市)、大調(浦和市)などに数々の逸話を残されているようです。
機会があったら訪問してみたいものです。


10月13日にご一泊されたのが現在の児玉町です。(10月13日?・・・あ、お会式の日だ!)
この道は通称「児玉街道」というそうです。
周辺は社寺が多く、古くから人の往来が盛んだった様子が窺えます。


街道沿いに存在感抜群の題目法塔!


檀頭のお名前が!「久米さん」という方です。


題目法塔の対面には、この場所の由縁を刻んだ石碑。
「佐州往還之砌」
「宗祖大菩薩旅館之霊場」
「兒玉時國舊地」

「佐州」は佐渡の事、「砌」(みぎり)は何かが行われた場所の事、「兒玉時國」は日蓮聖人の時代にこの界隈の領主をしていた方、「舊」(きゅう)は「旧」の旧字でしょうか。



門柱には自我偈の一節
「一心欲見佛」「不自惜身命」

「仏様に会いたいという一心で、命さえ惜しまない」的な意味だと思います。


本堂です。昔の庵を連想させる寄棟造りで、僕の好きな形です。


ここ玉蓮寺はもともと、先ほどの石碑にもあった児玉六右衛門尉藤原時国公(長い!)という、この地の領主の邸だったそうです。
お寺の由緒には「児玉党の領主」と刻んでありました。
「児玉党」は今の埼玉北部を拠点にしていた武士団のようです。


佐渡に向かう日蓮聖人一行をお泊めした夜にお説法を受け、児玉時国公は教化されました。
武士団の頭領、というと恐そうなイメージですが、宿に困っているお坊さんを泊めてあげるなんて、心の優しい方だったんですね。


日蓮聖人像に合掌。


お説法中のお姿のようですが、とっても優しい表情ですね!


境内には
法華経の篤信者・加藤清正公をお祀りするお堂
瓦まで蛇の目ですね~!

身延山中興の立役者・日朝上人をお祀りするお堂
などがあります。


鐘楼は朱塗りです!


歴史のある古刹だけに、でかい法塔の数々・・・
それぞれの時代を生きたご住職、壇信徒達の思いが詰まっていると思うと、自然と手を合わせたくなるものです。


流刑地・佐渡に向けて旅立たれてから2年5ヶ月後、ご赦免になられた日蓮聖人は鎌倉への帰途に再び立ち寄られ、ご一泊されたそうです。
佐渡行きの時に供養を尽くしてくれたからなのでしょうね、日蓮聖人は心優しい弟子にお礼がてら再訪したのだと思います。
そして、ご無事な日蓮聖人に再会できた時国公も、どれほど嬉しかったことでしょう。



「御洗足之井戸」
このご霊跡を象徴する井戸だと思います。
つらいつらい佐渡流罪・・・終身刑が多く、一般的には本土に戻る例はまずなかったといいます。
その刑が赦免になり、海を渡りまだ雪の残る山道を歩いて、やっと、やっとたどり着いた、いわば身内の邸。
旅の汚れだけでない、いろんなものを、この井戸で落とされたのではないでしょうか。


日蓮聖人が鎌倉に向け発たれる時に、時国公は久米川までお送りになったそうです。
児玉家は久米川の出身だそうで、日蓮聖人は時国公に姓を「久米」に改めるようアドバイスされたそうです。

どうりで、境内には数え切れないほどの「久米家」の墓石!
入り口の題目法塔に刻まれていた壇頭名も久米さんでした。
久米家が繁栄し続けてきたことが窺えます。


日蓮聖人がご入滅して4年が経過した1286年、時国公は邸内にお堂を建て、自ら彫刻した(すごいよね~!)お祖師様のご尊像を安置した、というのがこのお寺のルーツです。

以後730年以上にわたって、お祖師様ご一泊、じゃなくて二泊の霊場がご住職、壇信徒により守られてきたのです。
感謝します!




最後にちょっと余談

今回この地を訪問したのにはもう一つ理由がありました。

僕の妻のお父さん方のルーツはこの辺りにあり、「富士講の先達さん」をやっていたそうなのです。義母や遠戚のうろ覚えの記憶なんですが・・・。
特に江戸時代に盛んだった富士山信仰の集団「富士講」


「先達さん」は富士講信者のリーダー的役割で、富士山への信仰登山の助けをする「御師」宅まで富士講信者を連れて行くのが大きな仕事だったようです。

埼玉県北部には「丸正鐘講」(まるしょうつりがねこう)という大きな富士講があったらしく、富士塚や石碑も多く残されているそうなので、その一つを訪問しました。


美里町の山あいに二柱神社というお社があります。


その境内に「不二岳大神」の石碑
富士山信仰に関係のある場所だということがわかります。


別の石碑の台座には・・・「正」の字をデフォルメしたマークと「鐘」の文字!!
丸正鐘講が奉納した石碑ですね!


願主に先達さんの名前が!
~行~山というのが、富士講内の法名なんですね!

ウチの妻の先祖が丸正鐘講だったかどうかの確証はありませんし、この方よりもずっと昔に先達さんをやっていたと思われますが、ぼんやりとした存在でしかなかった「先達」の刻字、先祖に会えたような嬉しさがありました。


帰り道、踏切には・・・お~!秩父鉄道!!
長瀞とか秩父にも近い場所なんですね。

圏央道が開通してから、僕の住む湘南からも1時間半もあれば来れることがわかりました。
また近いうちに日蓮聖人のご霊跡&富士講遺跡のセットで、埼玉を訪問してみようと思います!