日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

大覚山善勝寺(出雲崎町尼瀬)

2018-11-04 23:14:33 | 旅行
佐渡・経島の岩上にお祀りされていた日朗上人像

日蓮聖人のもとへ、一刻も早く赦免の知らせをお届けしたいと上人自ら佐渡に渡った、その威徳を讃えたご尊像だと思います。
首に赦免状を掛けて読経しているお像は「師孝第一」の日朗上人らしさが表現されており、印象的でした。



日蓮聖人が龍ノ口の法難から佐渡に流されている間、日朗上人はここ鎌倉・長谷の宿谷光則邸の裏手にある土牢に収監されていたと記憶しています。
(現在は行時山光則寺の境内になっています)



日蓮聖人が依知から佐渡に発つ前日に、牢中の日朗上人に宛てしたためられた「土籠御書」には、島に流されるご自分のことよりも弟子の身を案じる強い思いが込められており、時代を超えて我々の心を打ちます。(↑画像は依知・妙純寺)

このお手紙、そして牢の中での日朗上人のお姿は、監視役の宿谷光則や看守の役人の気持ちに、変化を起こさせたようです。
でなければ日蓮聖人佐渡在島中に日朗上人が越後までやってくるなんて不可能です。


日朗上人が佐渡の日蓮聖人の無事をお祈りしたというご霊跡が出雲崎にあるそうなので、訪問してきました。


出雲崎の海岸近くには「順徳天皇御神霊御上陸地」の碑があります。
正確な由緒はわかりませんが、恐らく佐渡に流され心ならずも島で崩御された順徳天皇の御霊(お位牌なのかな・・・?)が本土に上陸されたことを記念したのでしょう。御霊に寄り添って、若き阿仏房もこの地を歩かれたのでしょうか。



出雲崎は江戸時代、北国街道の宿場町として栄えました。旧道沿いに当時を偲ばせる街並みが続いています。



旧道から山側に上がったところに、善勝寺はあります。



お寺の前には「おけさ発祥の地」の碑があります。
源平の合戦に参じ二度と戻らなかった息子達が、勇敢な死を遂げたと知らされた尼僧の母が、嬉しさのあまり袈裟法衣のままこの地で唄い踊ったのがルーツのようですよ!



善勝寺の本堂です。
江戸時代の建築だそうです。時間によってしか生み出すことの出来ない渋みが滲み出ています。



彫刻も精緻で見応えがあります。優秀な職人さんの手によるものでしょう。



山号は大覚山です。



日朗上人はこの丘に登り、海の向こうで理不尽な流刑に耐えている日蓮聖人のご無事を祈ったそうです。
丘の上にあった釈迦堂を、のちに日朗上人の直弟子である日善上人が改宗させて開いたお寺が善勝寺のルーツです。
日朗上人を開山と仰ぎ、自らは二祖になっているようです。



先ほどの土籠御書の画像は依知の妙純寺ですが、実は妙純寺を開いたのも日善上人です。



日善上人のお姿は「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも見られます。九老僧なんですね!



このお寺、ヤギを飼っているんですよ~!とっても人懐こく、僕が「メェ~」と鳴くと「メェ~」と返してくれます!



一説によると、日朗上人は(捕らわれの身でありながら)何度も佐渡に渡っていた、とも言われています。
「お師匠さま」を慕うその執念は、我々とは次元が違い過ぎますね・・・。少なくとも僕はこれまで50年の人生で、何の分野においてもこれほどのカリスマに出会ったことがありません。

現代では無理なのかなぁ・・・。























常在山本𡈽寺(中能登町西馬場)

2018-11-04 20:02:40 | 旅行
僕が日蓮聖人とそのお弟子さんのご霊跡を探す際、参考にしているツールの一つに、日蓮宗ポータルサイトがあります。こちらの「寺院めぐり」のサイトに「宗門史跡」も案内されています。
今回、北陸を旅するにあたって事前調査してみると、北陸の宗門史跡は2ケ寺、一つは有名な本山・妙成寺、そしてもう一つは「本𡈽寺」とありました。石川県中能登町にある日像上人のご霊跡のようです。


訪問してきました!

本𡈽寺の「土」の字には点が付くんですね!


宗門史跡・・・どういう史跡なんだろう?



法塔があります。
ここから先は聖域ですね。最近は必ずここでお数珠を手にするようになりました。



わ~、上の二つの石を支えてる所、空間が見える!アーティスティックな石塔ですね!



日像上人ご開山のお寺のようですね。



ん?日像上人は北陸で法難に遭っていたんだ・・・巷では京都での法難ばかりが語られているから、全く知りませんでした。



参道はゆるい坂道になっています。



結構大きなお寺のようですね~。



本堂です。
1847年に再建されたお堂らしいのですが、キレイに維持されているので古さは感じません。デザインも現代的です。



本堂の裏手には七面堂!



新潟を含む北陸地方の日蓮宗寺院には、七面大明神をお祀りしているお堂が多いように思います。
新潟・角田浜で日蓮聖人が七面の大蛇を教化された逸話が関係しているのでしょうか。



境内はキレイに苔むしており、またクラシカルな法塔が沢山あります。
日像上人のお寺ですから700年の歴史はあるはずです。



幼い頃、ご入滅直前の日蓮聖人から帝都開教の遺命を受けた日像上人は、その10年後、上洛の前に日蓮聖人にゆかりのある場所を巡拝されました。
佐渡にも行かれ、島内各地で参拝を済ませた日像上人は、七尾に行く船に乗りました。
この船は番匠弥右衛門が所有する石動山天平寺の御用船でした。ということは天平寺関係者が沢山乗船していたと思われます。



関係者の中には天平寺の学頭・萬蔵法印もいました。
当時の天平寺は3000人からの僧侶を擁していたそうです。その中の学頭ですから、ものすっごく優秀なお坊さん、エリート中のエリートだったのでしょう。



七尾に向かう船中で、日像上人は萬蔵法印と法論を交わしました。お祖師様も認めた神童・経一丸が更に研鑽・修行を重ねた青年僧と、巨大寺院・天平寺学頭の法論ですから、それは白熱したやり取りだったと思います。



法論の末、萬蔵法印は日像上人に帰伏しました。
萬蔵法印は日像上人に、一緒に石動山に登って、弟子達にお説法して欲しいとお願いしたそうです。



天平寺のあった石動山は、本𡈽寺から直線距離で7kmほど離れています。
この画像の奥、杉木立の左側に見えるあたりが、石動山じゃないかな~?



日像上人は請われるまま石動山に登り、僧侶達に向かって法華経の法義を説きました。
すると僧侶達は怒り出しました!暴徒と化した大衆は日像上人らに石を投げ、棒で殴り、中には刀を抜く者もいたようです。

特に「裏切り者」とされた萬蔵法印への反発・攻撃は凄まじかったといいます。日像上人とともに急いで山を下り、現在の本𡈽寺の辺りまで逃げてきたといいます。
それでも石動山の僧侶達は大勢で追いかけてきました。これは、命が危ない!!



そんな時、この村の農夫である加賀太郎、北太郎という兄弟が日像上人を安全な場所に匿い、激高している僧侶達に対峙しました。この時点では法華経とは全く関係のない農夫兄弟だったはずです。なのに賢明に僧侶達を退け、その末に二人は亡くなってしまいました。



お寺から少し歩いたところに兄弟の墓所があると伺い、お参りに行きました。


兄弟の七回忌にあたり、当時帝都で苦闘していた日像上人から直々に法号が授けられたそうです。

お兄さんである加賀太郎(享年35才)には「祐乗上人」、



弟である北太郎(享年32才)には「道乗上人」の法号が授与されました。

これが石塔に刻まれていた法難だったんですね・・・。自分の命も厭わず、必死で日像上人を助けようとしたのは、もしかしたら兄弟は日像上人のお姿に何かを感じたからかもしれません。それにしても、できることじゃありません。
日像上人が帝都開教を果たし、法華経の教えが天下公認になったその裏には、こんな尊い犠牲もあったのだということを、我々信徒は知るべきだと思いました。



兄弟の七回忌である1300年、日像上人は兄弟の菩提を弔うためにこの地に常在山本𡈽寺を開きました。
日像上人は下総国平賀の生まれですが、平賀にある日蓮聖人、日朗上人ゆかりの「本土寺」と同じ名前を付けたようです。
(常在山本𡈽寺の土には点が付いてますけどね!)



お寺の山門は、のちに荒廃した石動山天平寺の山門を明治期に移築したものだそうです。
そう言われれば立派だわ・・・。



本𡈽寺の開山堂には、日像上人像とともに、祐乗上人(加賀太郎)、道乗上人(北太郎)のお像がお祀りされているそうです。
兄弟のお像は農夫の姿で、武器にした農具を携えているといいます。


いろいろ考えさせられ、胸がいっぱいになりました。