日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

日蓮聖人御参籠借跡(太子町太子)

2019-01-03 21:20:08 | 旅行

大阪府の南東部、奈良県との県境近くに「太子」という場所があります。



地名からもわかるように、ここ太子はあの聖徳太子ゆかりの場所です。
飛び出し坊やも太子君です!



実は太子町には聖徳太子の御廟があるのです。
御廟を守護する目的で建立されたのが叡福寺です。



山号は磯長山(しながさん)です。
現在は真言宗系の単立寺院だそうです。



聖徳太子は大陸から伝来したばかりの仏教の隆盛に尽力し、自らの政治にもその精神を採り入れたことで有名です。
そのため、平安以降に登場した民衆救済の新しい仏教の開祖達が、こぞってここ叡福寺の御廟に参籠したそうです。
お寺の縁起によると、空海、親鸞、良寛、一遍、證空といったビッグネームとともに、日蓮聖人のお名前もありました。



こちらが聖徳太子の御廟です。宮内庁の管理になっています。
仏教の根付くこの国に生まれたことを感謝し、僕も参拝しました。



ところで目的の日蓮聖人のご霊跡、門前に一カ所だけ矢印があったものの、なかなか見つかりませんでした。
1時間近く境内をウロウロ捜索し・・・


やっと見つけました!
今後、信仰ある方がスムーズに参拝できるように、ご霊跡までの経路を記しておきますね!


この山門をくぐると・・・


正面奥に聖徳太子の御廟がありますが、ここまで行ってしまうと迷います!
御廟の手前を右に折れます。


すると「霊園事務所」の矢印看板があります。
画像右に見えるお堂と


その奥にある弘法大師堂の間の道を歩きます。


やがて境内の外側に出ます。
この道を数十m歩いた左側に、日蓮聖人御参籠借跡があります。



木立に囲まれた静謐なご霊跡です。



苦労して見つけたので、喜びもひとしおです。



手水もありました。水こそ溜まっていませんが、「清蓮水」で手を清められた気分になります。



正面に宝塔があります。



お花が供されていました。
心ある方によって清められていることがわかります。



宝塔の脇には昭和60年に建立された立派な納経塚もありましたよ!



このご霊跡の縁起と思われる石碑がありました。
古い文調なので正確じゃないかもしれませんが、大体の縁起を紹介します。



比叡山に遊学されていた学僧・蓮長法師(のちの日蓮聖人)は、さらに様々な仏教の教学を学ぶため、高野山ほか多くのお寺を巡りました。
そののち建長2年(1250年)の春、叡福寺を訪れ、聖徳太子の御廟を参詣されたそうです。



縁起には「参籠」と刻まれています。つまり単なるお参りではなく、一定期間叡福寺に引き籠って祈願をされたようです。
「一七日晝夜法華経ヲ読誦」と刻まれていました。これは17日間でなく1×7=7日間かな?ぶっ通しってことでしょう。



「結日」つまり参籠の最終日の夜、「慈顔温容」な聖徳太子が現れました。
そこで日蓮聖人は日本を救済する方法を聖徳太子に奏上されたそうです。



聖徳太子と日蓮聖人の「法談」は「盡クルヲ識ラス(尽くるを知らず、かな?)」、明け方まで続いたそうです。



朝になり聖徳太子のお姿は徐々に消えていったようですが、日蓮聖人はこの霊験に「法悦ニ咽ヒ」喜ばれた、と刻まれていました。
僕のような凡人にはちょっと理解できない世界ですが、お祖師様のような方は「識」を上手に使って法談できるのでしょうね!



石碑には「感應の神秘」って刻まれていましたよ。まさに!



どの教えが真理なのかを追求する旅で得られた成果を日蓮聖人は聖徳太子の御廟に報告されていた・・・そのご霊跡を訪問できたことはとても嬉しいです。
ただ、それ以上に叡福寺という他宗の大寺院の一角に、御参篭跡を設けた先師先哲の尽力に、感服してしまいました。
「借跡」なので叡福寺に土地をお借りしているのかもしれませんが、借りる側の執念、貸す側の懐の深さ、いずれもすげぇな~!と頭が下がります。



先述のように空海、親鸞、良寛、一遍、證空といった各宗の開祖達も、お祖師様と同じように参籠しているのです。
しかしその中で叡福寺に一角を借りてまで御参篭跡を設けたのは日蓮聖人の法孫達だけです。

この御参籠跡が末永く維持されてゆくことを祈念しますし、何よりもできるだけ多くの信徒にこの場所を知ってもらい、是非訪問して頂きたいと思います。



僕は信徒の端くれとして本当に光栄に思いました。あぁ、叡福寺に来て良かった!

素晴らしいご霊跡に出会えた事を、改めて聖徳太子に感謝し、叡福寺をあとにしました。