-今日の独言- 袴垂と福田善之
「袴垂保輔」とも別称される「袴垂-ハカマダレ」とは平安時代に活躍したとされる伝説の盗賊だが、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」では「袴垂」と「保輔」は別人とも見られるようだ。両者がいつのまにか合体して伝説的な大盗賊の名となったのだろうが、その経緯のほどは藪の中である。
今昔物語や宇治拾遺には「いみじき盗人の大将軍」たる「袴垂」が、笛を吹きつつ都の夜道を歩く男を襲って衣類を奪おうとしたが逆に威圧され果たせなかった。その相手が和泉式部の夫として知られる藤原保昌であった、という一節がある。また宇治拾遺の別段では、「保輔」という盗人の長がいて、この男は藤原保昌の弟であったとされている。
藤原保輔という名は「日本紀略」にその名を残しているようで、永延2年の条に「強盗首」と記されており、「追悼の宣旨を蒙ること十五度、獄中にて自害した」とあるそうな。
どうやらこれらの話が縺れ合わされて、いつのまにか「袴垂保輔」なる伝説上の大盗賊ができあがってきたらしい。
ところで話は変わって、もう40年以上昔のことだが、「袴垂れはどこだ」という芝居があった。1964(S39)年初演で、たしか大阪労演にものった筈だ。脚本は福田善之。
頃は中世末期か、うちつづく戦乱と天変地異による凶作で逃散するしかない百姓たちが、伝説の盗賊「袴垂」を救世主として求め、尋ね探しゆく放浪の旅を果てしなくつづけ、最後には自分たち自身が「袴垂」に成ること、彼ら自身の内部に「袴垂」を見出すべきことに目覚めていくという物語。
福田善之得意の群像劇とでもいうべき一群の演劇シーンは、状況的には60年安保と呼応しながら、それまでの戦前からの新劇的世界を劃するものとなったと思われる。
彼の処女作「長い墓標の列」は57(S32)年に当時の学生演劇のメッカともいえる早稲田の劇研で初演されている。
60年安保を経て、翌61(S36)年発表された劇団青芸の「遠くまで行くんだ」は演出に観世栄夫を迎えたが、アルジェリア紛争と日本の60年安保を平行交錯させた展開の群像劇は、挫折感にひしがれる多くの知識人や学生たちにとって鮮烈に響いたにちがいない。
63(S38)年春に同志社へ入学、すぐさま第三劇場という学生劇団に入った私は、この「遠くまで行くんだ」を是非自分たちの手で演ってみたいと思ったが、先輩諸氏の心を動かすに至らず、残念ながら果たしえなかった。
福田善之的劇宇宙は、明けて62(S37)年の「真田風雲録」をもって劃期をなす。この舞台は当時の俳優座スタジオ劇団と呼ばれた若手劇団が結集した合同公演で俳優座の大御所千田是也が演出した。
このスタジオ劇団とは、三期会(現・東京演劇アンサンブル)、新人会、仲間、同人会、青芸、らであるが、今も残るのは広渡常敏氏率いる東京演劇アンサンブルと劇団仲間くらいであろうか。
「真田風雲録」は早くも翌63(S38)年に東映で映画化され話題を呼んだからご存知の向きも多いだろう。監督は加藤泰、主演に中村錦之助や渡辺美佐子。渡辺美佐子は舞台の時そのまま「むささびのお霧」役だった。新人劇作家による新劇の舞台が、なお五社映画華やかなりし時代に映画化となったのだから、ちょっとした驚きの事件ではあった。
さらに63(S38)年の秋、川上音二郎を題材にした「オッペケペ」(新人会)で福田善之の劇宇宙は健在ぶりを示し、翌年の「袴垂れはどこだ」(青芸)へと続く。どちらも演出は観世栄夫。
これら福田善之の一群の仕事と、同時代の宮本研や清水邦夫ら劇作家の仕事は、戦前から一代の功成った新劇界の旧世代と60年安保世代ともいうべき若き新しい世代との、時代の転換を促し加速させたものであり、新しい世代によるアンチ新劇は、アングラ演劇などと呼称されながら、小劇場運動として以後大きく花開いてゆく。それは新劇=戯曲派に対する、唐十郎の「特権的肉体論」に代表されるような役者の身体論を掲げた、演劇=俳優論への強い傾斜でもあり、遠くは80年代以降の演劇のエンタテイメント志向に波及もする潮流であったといえるだろう。
唐十郎の「状況劇場」の登場はこの64(S39)年のこと。劇団「変身」の旗揚げは翌65(S40)年、同じ年、ふじたあさやと秋浜悟史の三十人会が「日本の教育1960」を上演し、別役実と鈴木忠志の「早稲田小劇場」、さらには佐藤信らの「自由劇場」の旗揚げはともに66(S41)年であった。
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<春-30>
人問はば見ずとは言はむ玉津島かすむ入江の春のあけぼの
藤原為氏
続後撰集、春上、建長二年、詩歌を合せられ侍りし時、江上春望。
貞応元年(1222)-弘安9年(1286)、藤原定家の二男である権大納言為家の長子。御子左家二条家の祖となる。後嵯峨院、亀山院の内裏歌壇において活躍。後拾遺集の選者として奉覧。続後撰集初出、勅撰入集232首を数える。
玉津島は紀伊国の歌枕。今は妹背山と呼ばれ、和歌の浦に浮ぶ小島。
邦雄曰く、春霞立ちこめた紀伊の玉津島の眺めの美しさは筆舌に尽しがたい。ゆえに「見ずとは言はむ」。思考の経過の一部を大胆に切り捨てて否定表現にしたのは、実は父・為家の示唆によるとの逸話もある。万葉集・巻七の「玉津島よく見ていませあをによし平城(なら)なる人の待ち問はばいかに」以来の歌枕、彼はこの歌の返歌風の本歌取りを試みた、と。
月影のあはれをつくす春の夜にのこりおほくも霞む空かな
藤原定家
拾遺愚草、上、閑居百首、春二十首。
邦雄曰く、定家25歳の作。言葉もまた入念に、殊更に緩徐調で、曲線を描くような文体を案出した。六百番歌合せはなお6年後、まだ狂言綺語の跳梁は見せぬ頃の、丁寧な技法を見せる佳品だが、勅撰集からは洩れている。春二十首には「春の来てあひ見むことは命ぞと思ひし花を惜しみつるかな」も見え、噛んで含めるかの詠法が印象的、と。
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