-今日の独言- 八百屋お七
天和3(1683)年の今日3月29日は、男恋しさのあまり自宅に火付けをした江戸本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘お七が哀れ刑場の露となった日だそうな。浄瑠璃や歌舞伎で名代の八百屋お七である。
天和・貞享・元禄と五代綱吉の世だが、この頃暦号がめまぐるしく変わっているのも、この「お七火事」事件と少なからず関わりがありそうだ。
天和2(1682)年の暮れも押し迫った12月28日、江戸で大火が起こった。駒込大円寺から出火、東は下谷、浅草、本所を焼き、南は本郷、神田、日本橋に及び、大名屋敷75、旗本屋敷166、寺社95を焼失、焼死者3500名という大被災。その際、家を焼かれ、駒込正仙寺(一説に円乗寺)に避難したお七は寺小姓の生田庄之助(一説に左兵衛)と恋仲となった。家に戻ったのちも庄之助恋しさで、火事があれば会えると思い込み、翌年3月2日夜、放火したがすぐ消し止められ、捕えられて市中引廻しのうえ、鈴ヶ森の刑場で火刑に処せられたというのが実説。
この八百屋お七がモデルとなって西鶴の「好色五人女」に登場するのが早くも3年後で、元禄期には歌祭文に唄われていよいよ広まり、歌舞伎や浄瑠璃に脚色されていくが、とくに歌舞伎では曽我物の世界に結びつけた脚色が施され、八百屋お七物の一系統が形成されていく。
―― 参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<春-34>
霞立つ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空 藤原家隆
新古今集、春上、摂政太政大臣家百首歌合に、春曙といふ心を。
末の松山-陸奥国の歌枕、宮城県多賀城市八幡、宝国寺の裏山辺り。二本の巨松が残る。
邦雄曰く、末の松山が霞む、霞の彼方には越えられぬ波が、ひねもす泡立ちつづける。うすべにの雲が、縹の波に別れようとする。横雲を浮かべた空自体が海から離れていく幻覚、錯視のあやういたまゆらを掴むには、これ以外の修辞はなかったろう。霞・雲・浪と道具立てが調い過ぎているという難はあろうが、これだけ流麗な調べの中に籠めるとその難も長所に転ずる、と。
物部の八十乙女らが汲みまがふ寺井のうへの堅香子の花
大伴家持
万葉集、巻十九、堅香子草の花を攀じ折る歌一首。
物部の八十乙女(もののふのやそをとめ)-物部は八十=数多いことに掛かる枕詞。堅香子の花-片栗の花とされるのが通説。
邦雄曰く、寺の井戸のほとりには早春の片栗の、淡紫の六弁花がうつむきがちに顫えている。水汲む乙女らは三人、五人と入り乱れてさざめく。「物部の八十乙女」の鮮明な動と、下句の可憐な花の静の、簡素で清々しい均衡は、家持独特の新しい歌風の一面である、と。
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