-四方のたより- コゲラ展と市岡写真クラブ展
写真は、小学校時代の恩師河野さんが老後の愉しみにしている木版画教室の年に一度の作品展「コゲラ展」で、会場も毎年同じの真砂画廊で本日最終日。夕刻終了まぎわに同窓の何人かと示し合わせ久し振りの邂逅をと目論んでいる。
もう一つ、市岡13期生の中務さんを中心に3年前から同窓会館を根城に集まっている市岡OBたちの写真クラブが初の作品展を開くというお知らせが舞い込んできた。どういう訳か同じ15期の輩が男女2名ずつ4人も参加しているらしく、私のところまで案内が寄せられたか。
此方は、来週の16日-水-から21日-月-までで、会場は地下鉄「南森町」駅そばのギャラリースペース「草片-くさびら-」。このギャラリーの店主はフォトクラブも主宰しているようで、どちらかといえば絵画や彫刻よりフォト・ギャラリーとして特化しているようだ。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「霽の巻」-30
三ヶ月の東は暗く鐘の声
秋湖かすかに琴かへす者 野水
次男曰く、「虚栗」に収める其角・芭蕉の両吟歌仙「詩あきんど」の巻には、
詩あきんど年を貪ル酒債哉 其角 –発句-
冬湖日暮れて馬ニ駕スル鯉 芭蕉 –脇句-
詩あきんど花を貪ル酒債哉 其角 –花定座-
春湖日暮れて興ニ駕ル吟 芭蕉 –挙句-
という起承転結の趣向が見られる。
その「冬湖」「春湖」の句主が「三ヶ月の東は暗く鐘の声」と問掛けるのなら、答は当然「秋湖」であり「かすかに」であり、さらに音声の転調の工夫だと案じている。
ならば五方で秋は西方にあたるということも目のつけどころだろう。
「琴かへす」は、むろん、琴の調べを変えるとしか読みようがない。「者」は「人」-三句前で遣っている-・「音」-前句の「鐘の声」ともつれる-を嫌う目配りの結果ではあったろうが、湖上から幽かにきこえてくる琴の音をさぐる風情が自ずと現前する韻字である。「虚栗」から一年、江戸新風の宗主を迎えて、野水のこの挨拶は佳い。
諸注、「中務親王と伊勢との贈答の歌
あづま琴はるのしらべをかりしかばかへしものとは思はざりけり 中務親王
かへしてもあすぬ心を添へつれば常より声のまさるなるらむ 伊勢
によりて、古き語のかへすといふを用ゐ、湖上にて琴を弾じ居れる者の、三日月の空に暮鐘の水を渡るを聴きて、時に応じ景に応じ、琴の調を改むる趣を云うなり」-露伴-
「湖上の清遊も早興も尽き夕の鐘も音づれ来れば借りし琴を返すさまにて、文人画などにあるべき図なり。秋の夕靄の模糊たる湖畔を童子に琴負はせつつ蒼茫と帰り行く人の遠くほのかに見ゆるさまを目に浮ぶるにて足る」-樋口功-
「かへすはただ安らかに掻き返すことと解して宜い。‥前句に鐘の声があり、ここに琴の音を出すのは些か煩はしい感がする。この句琴かへす音としないで、琴かへす者と言った所に、作者の細かな心遣ひがあることを見逃してはならない。即ちここには琴の音を言はずして、それを弾く人の姿を描いたのである」-潁原退蔵-、と。
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