山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

おもひかねつも夜の帯引

2008-04-17 12:31:17 | 文化・芸術
980906037

―温故一葉― 貴田知歌子の巻

花見に興じるほどの暇もなくいつのまにか桜の季節はうちすぎ、はや新緑も目映くなる頃、
なにはともあれ、長い人生のリセットをされた、との佳き春の報せに、
「おめでとう」の一言を贈りたいと思います。

此方も長い間ご無沙汰していた村上さんから「ひさしぶりに逢いたい」などと請われ、新一年生となった幼な児を伴い出向いてみれば、さまざま四方山話のなかから貴女の結婚話なども飛び出して、「そうか、そうか、そうだったか」と、昨年7月の奧野事務所を退くに際しての諸々騒動については、折々島尾夫婦から聞いたりしては、向後の沙汰はどうなっていくものかと、お節介にすぎぬ余計な心配もしていたのだけれど、聞いて吃驚とともに安堵の思いで心落ち着き、春風に吹かれるがごとく爽やかな気に満たされました。

もちろん、村上情報だけでは些か心許ないゆえ、あらためて和子さんからも詳細のほどを聞いたのだけれど、この再婚話、耳にした時から、きっと相手は貴女より若い男性にちがいない、と脳裏をかすめたのも当たりどころか、此方の予想を上回る年齢差で、二度吃驚。

世間の道理や親族たちの論理からすれば、あれこれ抵抗の想いが錯綜しただろうけれど、私の知るかぎりにおいて貴女というものを考えれば、このたびの選択は、仕方のないものというよりおそらく最善の決断となるのだろうと思われ、お節介ながらその旨、和子さんにも強調しておきましたよ。

長女のお嬢さんも、貴女の無事出産を待って挙式の運びとか、二重三重の慶びを、願わくば、かけがえのない家族みんなで分かち合えるように、と祈りおります。
貴女は、その実年齢よりずっと若いのだから、これからは二人のあいだの新しい生命とともに、賢明に、懸命に‥‥。

自戒を込めて云えば、
お互いに近くあれば、心労のタネ多くとも、万事うまくいきます。
逃げたり遠ざければ、我が身安らかなれど、周りは波風尽きず、です。

 08戊子 卯月清明  

ひさしぶりの温故一葉は、港市民相談センター時代の若い同僚、貴田-現姓・菅田-知歌子嬢。御年42か3歳か。
私の在勤12年の後半期をともに過ごした彼女は、二十歳そこそこで結婚し、すでに小学校に通う女、男、男と3人の子がいたのだが、その容姿は若々しく、誰が見ても20代半ば、独身と見紛う華があった。必ずしも事務職に適しているとはみえぬ彼女だが、そこは市会議員の後援会も兼ねる事務所のこと、能力云々より万人受けが第一、愛嬌者でサービス精神旺盛だから、訪れる者たちの受けは老若男女を問わず抜群に良かった。

そんな彼女をマドンナ化することに、私は積極的に演出していく。後援会の一大イベントSunset Partyの司会をさせたのを皮切りに、新年会や演説会など催し事には必ず登板させ、司会役として欠かせぬ存在にしていったのである。
仕上げは99年4月、おくの正美4期目の選挙だった。この選挙における彼女はウグイス嬢たちのエースとして君臨、期間中、桃太郎に街宣車にと港区の街をくまなく廻りマイクを握った。結果は、2期目、3期目と目減りしてきた得票を挽回したばかりか、飛躍的に伸ばしたものとなった。

翌00年の夏、私は事務所を退いたのだが、残された彼女にとっては少々辛い日々が続いたのではなかったかと推測される。私的には夫の経済的破綻から果てはやむなく離婚にまで行き着いた、と聞きもした。初めは夫側に残された子どもたちもやがて彼女とともに住むようになったとも。おくの議員サイドの意向であろう、一介の事務職員がマドンナ的役割を担うのは如何なものかと、司会役もウグイス役も次第に降ろされていった。生活の糧だけのために居続ける場所としては雇用条件など必ずしも恵まれた環境ではない。40を過ぎた女の先行きへの不安は心の内でどんどん膨らむばかりであったろう。

彼女の人生のリセットに撰ばれた男性について面識もなにもないけれど、10歳近くも若い初婚男性で、実家は神戸西区の山の手の、農家が本業の長男だという、そんな事実だけでこの取合せ、なんとも今様の感じがして微笑ましくもあり、再出発の将来は明るい予感がしてくるのである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」-34

  かげうすき行燈けしに起侘て 

   おもひかねつも夜の帯引  重五

帯引-オビひく-

次男曰く、何となく起きたくない気分を継いで、思案のあげく帯引をする、と二句一章の仕立で話を転じている。帯引は帯の両端を引合って力競べをする遊で、むろん負けた方がここでは行灯消しに起つことになる。共寝のさまだとおのずとわかり、男二人と読んでもよい作りだが、「夜の」と冠したところに想像を生む。色模様をからませれば、「夜の帯引」は恋含みの俳言として面白く読めるだろう。

一巻も終になって露骨な恋など仕掛けるべきではないから、そうとでも読まなければ作意がわからなくなるが、諸注はただちに恋句と読んでいる。「おもひかね」「帯引」共に恋の詞と受取り、夜這の云回しとする。相手のもしくは自分の帯紐に手をかけるとか、足音を消すために帯を敷延べるとか、あるいは越えぬ誓を立てて二人のあいだに帯を置くとか、いろいろ決ったわけではない。帯引は前説したとおり、と。


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