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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」
―表象の森― 近代文学、その人と作品
一昨夜、昨夜と、よほど疲れていたのか、貪るほどに眠った。
9月9日の夜、RYOUKOがその生死を以て私の胸中深く飛び込んできて以来、すでに40数日‥。
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。
本書は2000年4月から2001年3月まで週一回、毎日新聞文化面に連載された「吉本隆明が読む近代日本の名作」の文庫化という。
夏目漱石と「こころ」
「こころ」の主人公の自殺は、乃木希典夫妻の殉死がきっかけとなっていた。明治天皇の後追自殺をした乃木夫妻の事件は漱石にも鴎外にもショックだった。
漱石の倫理観には、江戸時代からそう変わっていない儒教的な部分と、西欧に留学して得た近代的なものと両方があった。漱石は乃木夫妻の明治近代になってからの殉死に、自分のなかのこの二つの倫理性を揺さぶられ、「こころ」の主人公自殺に託したのではないだろうか、と。
高村光太郎と「道程」
「勝てば官軍」ほれたが因果
馬鹿で阿呆で人様の
お顔に泥をばぬりました -「泥七宝」より
欧米留学から帰った頃の高村光太郎のデカダンス生活の自嘲と自虐をこめた述懐になっている。
優れた仏像彫刻の大家であった父光雲は、‥、西欧近代の彫刻が芸術として追求したモティーフの垂直性、いいかえれば素材の本質から出ながら素材を超えた抽象の宇宙に到達する方向をもたない。作品は円く閉じるが、無際限な拡がりをもたない。光太郎が折角学んできたものは、父光雲やその弟子たちの世界ではけっして解放されない。
「どんな眼かくしをされても磁極は天を指すのだ」という自覚に、光太郎が達したのは、智恵子と結婚同棲の生活に入ってからだった。
昭和20年4月、空襲でアトリエを全焼した光太郎は、「自己流謫」と彼自身が呼んでいるように戦争責任を引き受け、山林の独居自炊の生活に服する。
彫刻家山に飢える。
くらふもの山に余りあれど、
山に人体の饗宴なく
山に女体の美味が無い。
精神の蛋白飢餓。
造型の餓鬼。
また雪だ。
‥‥
この彫刻家の運命が
何の運命につながるかを人は知らない。
この彫刻家の手から時間が逃がす
その負数-モワン-の意味を世界は知らない。
彫刻家はひとり静かに眼をこらして
今がチンクチェントでない歴史の当然を
心すなほに認識する。 -「人体飢餓」より
西欧近代の芸術を腹中に容れた東洋の意味が、負数であるのか正数であるのかは、まだ本格的に問われるほど、この詩人・彫刻家は読み切られていない、と。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「炭俵の巻」-33
泥にこゝろのきよき芹の根
粥すゝるあかつき花にかしこまり 野水
次男曰く、春二句目、挙句前の「句の花」を、二句上げたのは羽笠の野水に対する挨拶である。
名古屋衆の興行にたまたま相伴として加わることのできた謝意には違いないが、花の定座を間近にひかえ、春季のはこびに西行らしき俤の作りを示されて、「花」を以て継がぬ法はない。月と花は西行にとって修行の枝折りである。
作りは、白粥一椀の清浄を暁の花に取合せ、二句、僧尼の勤行とでも見ておくべきか。次句に改めて人躰の見定めをもとめる軽い遣句である、と。
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