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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」
―四方のたより― 窮鳥懐に入らずんば
昨日は稽古場で、ARISAの幼い頃からの舞踊歴というか研究所歴といったものを、あらまし本人から聞いた。
今日は弁天オーク200の喫茶店で、ARISAのお母さんから現在通っている所の状況などを聞き、今後の考え方などについて話をした。
聞けば聞くほど、話せば話すほど、狭い世界、悪しき業界癖とでも云うべきバレエ界の慣習や窮屈さが立ちはだかるように、ARISAの将来への見取図を描くのにfree handではいられなくなる。
門外漢の私などには、どうにも困った世界だ、というのがまずは本音のところだ。
バレエ・テクニックのことなど皆目知りもしない私だが、表現者としてなら、彼女に足らぬもの、何を身につけるべきか、心するべきか、語るべきことは相応にあろう。
だがバレエ界という長年にわたってつくられてきた特殊世界で、目先のことならいざ知らず、どのように身を立てていくかと考えることなど、外からさまざま類推しながらあれこれ思量したところで当を得たものになろう筈もない。
彼女にとってこの1年、長く見積もってこの2年、その培ってきた技量とまだ幼さを残す心の成熟度というアンバランスが、それだからこそおもしろいし限りない可能性を秘めているともいえるのだが、どれほど動的に縒り合わされていって、将来において見事な華を咲かせるか否かの決め手となる日月であろうことだけは、私の眼にはっきりと映るのだが、はてさて‥。
とはいうものの、斯様な悩み煩いは、よほど愉しくもあり心の贅沢でもある。窮鳥懐に入らずんば、と古い喩えもある。大いに愉しみつつ思い煩ってみようかと思うこの頃だ。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「霜月の巻」-02
霜月や鸛の彳々ならびゐて
冬の朝日のあはれなりけり 芭蕉
次男曰く、時節と時分の見究めを以てした打添の付である。
「て」留の発句に「なりけり」の治めは自然の成行で、「発句をうけて一首のごとく仕なしたる処、俳諧なり」-三冊子-とでも云うしかないが、和歌仕立すべて佳い脇になるわけではない。発句が景のなかに情の現れるさまに作られているから、「あはれなりけり」も俳を生む。凡にして非凡というべきか、去来は終生この句を脇作りの手本にしたという。
露伴は「元来あはれという語は日に縁のある語と云はんよりは、日の美しく照るところより起りたる語とされ居れば、芭蕉もここにおもしろしと用ゐたるなるを、哀れなどとのみ取りては、それにても七八分は済めども十分には済めず」と説く、と。
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