―表象の森― 梅岩の心学
「士農工商、おのおの職分なれども、一理を会得するゆえ、士の道を云へば、農工商に通ひ、農工商の道を云へば、士に通ふ」-石田梅岩 1685-1744-
大井玄はその著「環境世界と自己の系譜」-みすず書房 ‘09年刊-のなかで、
江戸時代は、完全な閉鎖系で環境を崩壊させることなく、生産性からみて収容能力の上限に近い人口を維持し、しかも平和に洗練された生活を営むことを可能にした時代であったとし、その閉鎖系への適応と倫理のモデルとして石田梅岩の心学を取り上げている。
彼は士農工商の身分制度を職能的区分として受け入れている。したがって商人が正直に「利を得る」のは武士が「禄を得る」のと同等であり、その職分であると説いた。「職分」とは、プロテスタンティズムなどが言うところの「天職」に似たニュアンスがある。梅岩によれば、それぞれの職分は形では異なっていても、重要であるのは職分をつうじて人の「道」を行うことである。
つまりは「一理」を会得すれば、それぞれの身分の区別を越えて、共通な人の道を歩んでいるのであって、万民は同等なのだ。その一理とは「心を知る」こと、その意味は、私心を去り、本来の心を見出すことである。本来の心とは「天地の心」であって、私利私欲とは関係のないもの。そしてそこにいたる生活の行動様式が「倹約」にほかならず、さらにその根本が「正直」である、という。
その梅岩が、現在の京都中京区車屋町通りの御池を上ったあたりの借家で「性学」-後に石門心学と称される-説きはじめたのは45歳の時。梅岩存命の最盛期には門弟400人を数え、没後も手島堵庵ら門弟たちによって流布し、心学を学ぶ学舎は19世紀半ばには諸藩34カ国180カ所に及び、断書-武芸でいえば免許皆伝の証書-を与えられた者が18世紀半ばからのほぼ1世紀のあいだに36000人以上に達したというほどに流布したともいうから、これはもう当時としては心学運動ともいうべき広汎なひろがりであったろう。
―山頭火の一句― 行乞記再び -110
4月20日、曇、風、行程4里、折尾町、匹田屋
風にはほんたうに困る、塵労を文字通りに感じる、立派な国道が出来てゐる、幅が広くて曲折が少なくて、自動車にはよいが、歩くものには単調で却つてよくない、別れ路の道標はありがたい、福岡県は岡山県のやうに、此点では正確で懇切だ。
行乞相はよかつた、風のやうだつた-所得はダメ-。
省みて、供養を受ける資格がない-応供に値するのは阿羅漢以上である-、拒まれるのが当然である、これだけの諦観を持して行乞すれば、行乞が修行となる、忍辱は仏弟子たるものの守らなければならない道である、踏みつけられて土は固まるのだ、打たれ叩かれて人間はできあがる。
同宿は土方君、失職してワタリをけて放浪してゐる、何のかのと話しかける、名札を書いてあげる、彼も親不孝者、打つて飲んで買うて、自業自得の愚をくりかへしつつある劣敗者の一人。
※表題句の外、4句を記す
立派な国道というのは3号線か、宗像市の赤間から遠賀町に入り、遠賀川を渡って水巻町を経て、現北九州市の西の外れ折尾-八幡西区-の町へ。
Photo/折尾の駅そばにある鷹見神社の鳥居
Photo/イルミネーションに彩られた現在のJR折尾駅
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