―日々余話― 半世紀ぶりの能楽堂
昨日は友からの誘いに相伴し、久しぶりの能楽鑑賞とあいなった。
大阪観世会定期能の普及公演と銘打つもの、場所は北区中崎町の大阪能楽会館だ。
大槻能楽堂には何度か足を運んだことがある、同じく谷町の山本能楽堂にも二、三度あると記憶するが、この会館に来た記憶は、どう手繰っても高2の時に観た「月光の会」の舞台だけしか思いあたらない。だとすれば、往時16歳、なんとなんと50年ぶり、まさに半世紀を隔てての推参だ。
建物の外観など、まったく記憶にないが、四間四方の舞台や橋懸りはおそらく昔のままなのだろう。初めの演目「高砂」を観ながら、ふと50年前に観た「火山島」の一シーンが脳裏をよぎる。
能組は休憩をはさんで二部構成、正味90分を要した「高砂」のあと、若手の仕舞が3曲、これが一部。二部は「吉野天人」のあと、狂言「竹生島詣」をはさんで、トリの演目が「春日龍神」とある。これでは4時間余を要するものとなろうから、今は東京に住まいするという大蔵流の大倉源次郎君が小鼓方を務める「吉野天人」、もう50代の半ばにもなろうというに、凛々しくも若々しいその懐かしい演奏姿を遠目にたっぷりと拝見させてもらったところで、退散することにした。
「高砂」も「吉野天人」も、シテやツレ、ワキなどの主な役どころを務めていたのが、いずれも若手や中堅といった体に見えた。普及公演と銘打ったあたり、いわばおさらい会の発展系といったところか。客席は結構な賑わいだったが、能の愛好者というより実際に仕舞や謡いを習う中高年の男女がずいぶんと多かったのではないか、と見受けられた。
―山頭火の一句― 行乞記再び -111
4月21日、晴、申分なし、行程3里、入雲洞房、申分なし
若松市行乞、行乞相と所得と並行した、同行の多いのには驚いた、自省自恥。
若松といふところは特殊なものを持つてゐる、港町といふよりも船着場といつた方がふさはしい、帆柱林立だ-和船が多いから-、何しろ船が多い、木造、鉄製、そして肉のそれも!
諺文の立札がある、それほど鮮人が多いのだらう、檣のうつくしい港として、長崎が灯火の港であることに匹敵する如く。-略-
入雲洞君はなつかしい人だ、三年ぶりに逢うて熊本時代を話し、多少センチになる。‥
金魚売の声、胡瓜、枇杷、そしてここでも金盞花がどこにも飾られてゐた。
酢章魚がおいしかつた、一句もないほどおいしかつた、湯あがりにまた一杯が-実は三杯が-またよかつた、ほんに酒飲はいやしい。
徹夜して句集草稿をまとめた、といふよりも句集草稿をまとめてゐるうちに夜が明けたのだ、とにかくこれで一段落ついた、ほつと安心の溜息を洩らした、すぐ井師へ送つた、何だか子を産み落としたやうな気持、いや、私としては糞づまりを垂れ流したやうな心持である-きたない表現だけれど-。
※表題句の外、5句を記す
文中の檣-ショウ-は船のマストのこと
Photo/帆柱林立する大正時代の若松港
Photo/現在の若松港全景
-読まれたあとは、1click-