山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

張りかへた障子の中の一人

2005-05-06 16:29:41 | 文化・芸術
uvs050420-021-1 「Lesson Photo in Asoka」より

<身体・表象> -4


<身>の現象学

<身ごもられ>から<身二つ>へ
人がまだ胎児の時、即ち母の胎内に<身ごもられている状態>である時、その胎児は、生理的にも、心理的にも、母体と未分化なまま共生している、といえよう。
それが出産によって、身(胎児)が身(母体)から分かれ、身二つとなる。
つまりは、胎児は、母体と<共生>していると同時に、<身分け>(身二つとなる)の直前にあるという訳だ。


非可逆的な<自己中心化>過程
乳幼児が、母親に依存しつつ、しだいに独立性をつよめていく過程は、まさにドラマそのものだといってもよい。
ピアジェのいう癒合的な感覚-運動的レベル(0~2歳)では、知覚し、行動するという循環的な過程によって活動の図式(シェマ)が形づくられ、このシェマと相関的に世界が秩序づけられ、構造化される。
しかしこの時期には象徴機能が未発達であるため、身のパースペクティヴは、<いま・ここ>に癒着的に中心化されており、視点の交換や転移の可能性をもたない。
したがって癒合的な感覚-運動的レベルでの活動には、すでに可逆性の芽生えはみられるものの、基本的には非可逆的である。


<脱-中心化>過程
乳幼児にとってあたらしい段階は、<意味するもの>(シニフィァン)と<意味されるもの>(シニフィエ)の分離を特徴とする記号的機能があらわれる表象的水準からはじまる(2~6.7歳)。
身ははじめ行動によって、自己中心性を脱却し、仮設された他者へと<脱-中心化>する。
しだいに子どもは、人の身になってみることができるようになる。主客の立場や役割を交換し、「ごっこ遊び」をとおして、相互所属性としての自己を把握するようになる。


<社会的自己形成への原型>
これははじめの中心化のうえに重ねられる再中心化の体験として、自己に対する関係の前意識的な把握でもある。
この二重化は、<脱-中心化>という他者への関係を媒介にしている。即ち、身の自己自身に対する関係は、身の他者自信に対する関係を内包しているのである。
さらにルールをもった遊びでは、ルールという、モノでもヒトでもない、非人称的なシステムが内面化され、システムの内にある身がより明確に<身分け>される。
これは社会の組織や制度、掟や法が内面化されるモデルとしてはたらき、人としての、非人称的な社会的自己が形成される原型となるだろう。


<具体的操作レベル>から<形式的操作レベル>へ
さらに事物に対する現実の活動の具体的内容と結びついた具体的操作レベルの過程を経て、形式的操作レベル(11.12~14.15歳)にいたると、操作が事物との具体的な結びつきから解放される。
操作の内容と形式が分化し、言語によって表された仮説にすぎない命題にもとづく、純粋に可能的な操作が行われるようになる。
こうして操作は、身と身のはたらきに癒着し、身に中心化したあり方から表象的に<脱-中心化>される。
これは同時に、表象のうえで身みずからを、コミュニケーションによって拡大された間主体的世界の内に位置づけることでもある。
このような<脱-中心化>は、モノの世界との関係での脱-中心化のみではない。それは感応的同調や、言語的イコール、非言語的コミュニケーションを通して、他者や他者の集団に役割的に同調し、その視点や操作を交換しうる<社会的・脱-中心化>でもある。


<外部-社会的存在>としての自己
自我の形成は、前操作的な諸活動の非可逆性と、操作的活動の可逆性の、互いに補いあう循環にもとづき、中心化と脱-中心化、および<非-中心化>との動的な均衡のうえに成り立っている。
自己は、操作的レベルで、より関係的、より可換的な役割存在として脱-中心化されるが、同時にその自己は、感覚-運動的な非可換性の感覚に支えられている。
他方、身の可換性と脱-中心化は、人称化を可能にする条件であるとともに、非人称化への傾向をはらんでいる。とりわけそれらが非人称的な制度や、制度のうちにある機械系や記号系を介してはたらくとき、身は極度に脱-中心化され、身は身のはたらきのうちに制度や機械系や記号系を組み込む。というよりは、そのはたらきのうちに組み込まれる。
身は<外部>の論理によって身分けされ、たんなる人として非人称化される。


<自-他>の集合的共生
それはまた、互いに補いあう形で集合的な<内部>への共生的な関係を呼びさますだろう。
集合的無意識に対する捉え方も、ア・プリオリに前提されるのではなく、<非人称化>の一種の構造として認めることができるのではないか。とすれば必ずしも神秘的なものと考える必要はないだろう。
これは人間的現実の多重構造と、それらの層のすべてにわたって意識している必要はない、ということを意味する。


    参照-市川浩・著「身体論集成」岩波現代文庫


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