山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

はかなしやわが身の果てよ‥‥

2006-03-26 19:18:20 | 文化・芸術
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-今日の独言- 小野小町

 美貌の歌人として在原業平と好一対をなす小野小町の経歴は不明なことが多く、またそれゆえにこそ多くの説話が語られ、全国各地にさまざまな伝説が生まれた。
鎌倉初期に成立した「古事談」では、東国の荒れ野を旅する業平が、風の中に歌を詠む声を聞き、その声の主を捜し歩くと、草叢に髑髏を見出すが、実は其処こそ小町の終焉の地であった、という説話がある。小町の髑髏の話はこれより早く「江家次第」という古書に見えるという。また同じ平安後期の作とされる「玉造小町壮衰書」なる漢詩では、美女の栄枯盛衰の生涯が小町に託されて歌われているとか。さらには鎌倉初期、順徳院が著したとされる歌学書「八雲御抄」では歌の神として小町が夢枕に立ち現れたという話もあり、これらより天下一の美女であり歌人の小町伝説は、さまざまな歌徳の説話や恋の説話が展開され、老後には乞食となり発狂したという落魄の物語まで生み出される。
 今に伝わる小町の誕生地と終焉の地とされるところは全国各地に点在しており、かほどに小町伝説が広く流布するには、同じく生没年不詳の歌人和泉式部が書写山の性空上人により道心を起こし諸国を行脚したとされ、これより瘡蓋譚をはじめさまざまな説話が全国に広まるが、これら式部伝説と重なり合って流布していく一面もあったかとも考えられそうだ。
鎌倉期以降には小町伝説や式部伝説を語り歩く唱導の女たちが遊行芸能民化して全国各地を旅したであろうし、また神官小野氏の全国的なネットワークの存在も伝説流布に無視できないものだったのではないか。
 そんな小町伝説をいわば集大成し、文芸的な形象を与えたのは世阿弥以降の能楽である。今日にまで残される謡曲に小町物は、「草子洗小町」、「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」「雨乞小町」「清水小町」と七曲ある。なかでもよく知られたものは、小町に恋した深草少将が、百夜通えば望みを叶えようと約した小町の言葉を信じて通いつめたものの、あと一夜という九十九夜目にして儚くも死んでしまったという「通小町」と、朽ちた卒塔婆に腰かけた老女が仏道に帰依するという話で、その老女こそ深草少将の霊に憑かれた小町のなれの果てであったという「卒塔婆小町」だろう。
 江戸化政文化の浮世絵全盛期、北斎はこれら七様の小町像を「七小町枕屏風」として描いている。
また元禄期の俳諧、芭蕉らの巻いた歌仙「猿蓑」ではその巻中に、
  さまざまに品かはりたる恋をして  凡兆
   浮世の果てはみな小町なり    芭蕉
と詠まれているのが見える。

―――――――――――― 参照「日本<架空・伝承>人名事典」平凡社 

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-31>
 春霞たなびく空は人知れずわが身より立つ煙なりけり  平兼盛

兼盛集、春頃。
生年不詳-正暦元年(990)。光孝天皇の皇子是貞親王の曾孫。三十六歌仙。後撰集以下に87首。
邦雄曰く、小倉百人一首に採られた「しのぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」の作者兼盛は、逸話多く、家集も数多の恋の贈答を含む。この「春霞」も誰かに贈った歌であろう。「煙」は忍ぶる恋に胸を焦がす苦しい恋の象徴、と。


 はかなしやわが身の果てよあさみどり野べにたなびく霞と思へば
                                    小野小町


小町集。
生没年不詳。文徳・清和朝頃の歌人。小野篁の孫とも出羽郡司小野良実の女とも、また小野氏出自の釆女とも。古今集・後撰集に採られた約20首が確実とされる作。六歌仙・三十六歌仙の一人。
邦雄曰く、哀傷の部に「あはれなりわが身の果てや浅緑つひには野べの霞と思へば」として入集。小町集のほうが窈窕としてもの悲しく、遥かに見映えがする。伝説中の佳人たるのみならず、残された作品も六歌仙中、業平と双璧をなす。古今集には百人一首歌「花の色は移りにけりな‥‥」が入集。貫之が評の如く「あはれなるやうにて、強からず」か、と。


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月影のあはれをつくす春の夜に‥‥

2006-03-25 18:24:18 | 文化・芸術
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-今日の独言- 袴垂と福田善之

 「袴垂保輔」とも別称される「袴垂-ハカマダレ」とは平安時代に活躍したとされる伝説の盗賊だが、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」では「袴垂」と「保輔」は別人とも見られるようだ。両者がいつのまにか合体して伝説的な大盗賊の名となったのだろうが、その経緯のほどは藪の中である。
今昔物語や宇治拾遺には「いみじき盗人の大将軍」たる「袴垂」が、笛を吹きつつ都の夜道を歩く男を襲って衣類を奪おうとしたが逆に威圧され果たせなかった。その相手が和泉式部の夫として知られる藤原保昌であった、という一節がある。また宇治拾遺の別段では、「保輔」という盗人の長がいて、この男は藤原保昌の弟であったとされている。
藤原保輔という名は「日本紀略」にその名を残しているようで、永延2年の条に「強盗首」と記されており、「追悼の宣旨を蒙ること十五度、獄中にて自害した」とあるそうな。
どうやらこれらの話が縺れ合わされて、いつのまにか「袴垂保輔」なる伝説上の大盗賊ができあがってきたらしい。


 ところで話は変わって、もう40年以上昔のことだが、「袴垂れはどこだ」という芝居があった。1964(S39)年初演で、たしか大阪労演にものった筈だ。脚本は福田善之。
頃は中世末期か、うちつづく戦乱と天変地異による凶作で逃散するしかない百姓たちが、伝説の盗賊「袴垂」を救世主として求め、尋ね探しゆく放浪の旅を果てしなくつづけ、最後には自分たち自身が「袴垂」に成ること、彼ら自身の内部に「袴垂」を見出すべきことに目覚めていくという物語。
福田善之得意の群像劇とでもいうべき一群の演劇シーンは、状況的には60年安保と呼応しながら、それまでの戦前からの新劇的世界を劃するものとなったと思われる。
彼の処女作「長い墓標の列」は57(S32)年に当時の学生演劇のメッカともいえる早稲田の劇研で初演されている。
60年安保を経て、翌61(S36)年発表された劇団青芸の「遠くまで行くんだ」は演出に観世栄夫を迎えたが、アルジェリア紛争と日本の60年安保を平行交錯させた展開の群像劇は、挫折感にひしがれる多くの知識人や学生たちにとって鮮烈に響いたにちがいない。
63(S38)年春に同志社へ入学、すぐさま第三劇場という学生劇団に入った私は、この「遠くまで行くんだ」を是非自分たちの手で演ってみたいと思ったが、先輩諸氏の心を動かすに至らず、残念ながら果たしえなかった。
福田善之的劇宇宙は、明けて62(S37)年の「真田風雲録」をもって劃期をなす。この舞台は当時の俳優座スタジオ劇団と呼ばれた若手劇団が結集した合同公演で俳優座の大御所千田是也が演出した。
このスタジオ劇団とは、三期会(現・東京演劇アンサンブル)、新人会、仲間、同人会、青芸、らであるが、今も残るのは広渡常敏氏率いる東京演劇アンサンブルと劇団仲間くらいであろうか。
「真田風雲録」は早くも翌63(S38)年に東映で映画化され話題を呼んだからご存知の向きも多いだろう。監督は加藤泰、主演に中村錦之助や渡辺美佐子。渡辺美佐子は舞台の時そのまま「むささびのお霧」役だった。新人劇作家による新劇の舞台が、なお五社映画華やかなりし時代に映画化となったのだから、ちょっとした驚きの事件ではあった。
さらに63(S38)年の秋、川上音二郎を題材にした「オッペケペ」(新人会)で福田善之の劇宇宙は健在ぶりを示し、翌年の「袴垂れはどこだ」(青芸)へと続く。どちらも演出は観世栄夫。
これら福田善之の一群の仕事と、同時代の宮本研や清水邦夫ら劇作家の仕事は、戦前から一代の功成った新劇界の旧世代と60年安保世代ともいうべき若き新しい世代との、時代の転換を促し加速させたものであり、新しい世代によるアンチ新劇は、アングラ演劇などと呼称されながら、小劇場運動として以後大きく花開いてゆく。それは新劇=戯曲派に対する、唐十郎の「特権的肉体論」に代表されるような役者の身体論を掲げた、演劇=俳優論への強い傾斜でもあり、遠くは80年代以降の演劇のエンタテイメント志向に波及もする潮流であったといえるだろう。
唐十郎の「状況劇場」の登場はこの64(S39)年のこと。劇団「変身」の旗揚げは翌65(S40)年、同じ年、ふじたあさやと秋浜悟史の三十人会が「日本の教育1960」を上演し、別役実と鈴木忠志の「早稲田小劇場」、さらには佐藤信らの「自由劇場」の旗揚げはともに66(S41)年であった。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-30>
 人問はば見ずとは言はむ玉津島かすむ入江の春のあけぼの
                                    藤原為氏


続後撰集、春上、建長二年、詩歌を合せられ侍りし時、江上春望。
貞応元年(1222)-弘安9年(1286)、藤原定家の二男である権大納言為家の長子。御子左家二条家の祖となる。後嵯峨院、亀山院の内裏歌壇において活躍。後拾遺集の選者として奉覧。続後撰集初出、勅撰入集232首を数える。
玉津島は紀伊国の歌枕。今は妹背山と呼ばれ、和歌の浦に浮ぶ小島。
邦雄曰く、春霞立ちこめた紀伊の玉津島の眺めの美しさは筆舌に尽しがたい。ゆえに「見ずとは言はむ」。思考の経過の一部を大胆に切り捨てて否定表現にしたのは、実は父・為家の示唆によるとの逸話もある。万葉集・巻七の「玉津島よく見ていませあをによし平城(なら)なる人の待ち問はばいかに」以来の歌枕、彼はこの歌の返歌風の本歌取りを試みた、と。


 月影のあはれをつくす春の夜にのこりおほくも霞む空かな
                                    藤原定家


拾遺愚草、上、閑居百首、春二十首。
邦雄曰く、定家25歳の作。言葉もまた入念に、殊更に緩徐調で、曲線を描くような文体を案出した。六百番歌合せはなお6年後、まだ狂言綺語の跳梁は見せぬ頃の、丁寧な技法を見せる佳品だが、勅撰集からは洩れている。春二十首には「春の来てあひ見むことは命ぞと思ひし花を惜しみつるかな」も見え、噛んで含めるかの詠法が印象的、と。


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見てもなほおぼつかなきは‥‥

2006-03-24 17:41:20 | 文化・芸術
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-今日の独言- 檸檬忌

   春の岬 旅のをはりの鴎どり
   浮きつつ遠くなりにけるかも


 三好達治の処女詩集「測量船」巻頭を飾る短歌風二行詩。
安東次男の「花づとめ」によれば、昭和2(1927)年の春、達治は伊豆湯ヶ島に転地療養中の梶井基次郎を見舞った後、下田から沼津へ船で渡ったらしく、その船中での感興であると紹介されている。
梶井基次郎と三好達治はともに大阪市内出身で、明治34(1901)年2月生まれと明治33(1900)年8月生まれだからまったくの同世代だし、同人誌「青空」を共に始めている親しい仲間。梶井は三高時代に結核を病み、昭和2年のこの頃は再発して長期療養の身にあり、不治の病との自覚のうちに死を見据えた闘病の日々であったろう。「鴎どり」には湯ヶ島に別れてきたばかりの梶井の像が強く影を落としているにちがいない。

 梶井は5年後の昭和7(1932)年、31歳の若さで一期となった。
奇しくも今日3月24日は梶井基次郎の命日、いわゆる檸檬忌にあたり、所縁の常国寺(大阪市中央区中寺)では毎年偲びごとが行われている。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-29>
 見てもなほおぼつかなきは春の夜の霞を分けて出づる月影
                                   小式部内侍


続後撰集、春下、題知らず。
生年不詳-万寿2年(1025)。父は橘道貞、母は和泉式部。上東門院彰子に仕えたが、関白藤原教通、滋井中将公成との間にも夫々一男をなしたといわれる。母に先んじて早世、行年25、6歳か。後拾遺集以下に8首。
邦雄曰く、秀歌揃いの続後撰・春下の中でも小式部の春月は、第四句「霞を分けて」が実に心利いた修辞。この集の秋にも「七夕の逢ひて別るる歎きをも君ゆゑ今朝ぞ思ひ知りぬる」を採られた、と。


 ほのかにも知らせてしがな春霞かすみのうちに思ふ心を  後朱雀院

後拾遺集、恋一。
寛弘6年(1009)-寛徳2年(1045)。一条天皇の第三皇子、母は藤原道長の女・彰子、子に親仁親王(後の後冷泉帝)や尊仁親王(後の後三条帝)。関白頼通の養女嫄子を中宮とする。病のため譲位した後、37歳にて崩御する。後拾遺集初出、勅撰入集9首。
邦雄曰く、靉靆という文字を三十一音に歌い変えたような、捉えどころもなく核心も掴み得ぬ、そのくせ麗しい春の相聞歌。暗い運命を暗示する趣もあり、忘れがたい作、と。
靉靆(アイタイ)-雲や霞がたなびくように辺りをおおっているさま。


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あかなくの心をおきて‥‥

2006-03-23 13:44:05 | 文化・芸術
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-今日の独言- センバツの甲子園

 WBCでの王ジャパン優勝で湧き上がったかと思えば、高校野球の春のセンバツがもう始まっている。出場校32校のうち初出場が12校というせいか初めて眼にするような校名が多いのに少し驚かされる。センバツにしろ夏の大会にしろ、高校野球のTV中継なぞもう長い間ろくに見たことがないから、出場校一覧を眺めても、どの学校が強いのやら前評判のほども知らずまったく見当がつかない。
 そういえば「甲子園」というのはなにも高校野球にかぎらず、いろんな催しに冠せられるようになって久しいようだ。高校生たちによる全国規模の競合ものならなんでも「~甲子園」とネーミングされる。これもいつ頃からの流行りなのかは寡聞にしてよく知らないが、そういう風潮がやたらひろがっていくなかで、本家本元・高校野球の甲子園が相対的に色褪せてきたようにも思われる。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-28>
 笛の音は澄みぬなれども吹く風になべても霞む春の空かな
                                    藤原高遠


大弐高遠集。
天暦3年(949)-長和2年(1013)、清慎公藤原実頼の孫、参議斉敏の子、藤原公任とは従兄弟。管弦にもすぐれ、一条天皇の笛の師であったという故事が枕草子に覗える。
邦雄曰く、朧夜に銀線を引くように、笛の音が澄みわたる。春歌にはめずらしい趣向である。道長の女彰子が一条帝後宮に入る祝儀の屏風歌として詠まれた。家集400余首に秀作も少なくはない。勅撰入集は27首にのぼり、死後一世紀を経た後拾遺集に最も多い。


 あかなくの心をおきて見し世よりいくとせ春のあけぼのの空
                                   下冷泉政為


碧玉集、春、春曙。
文安2年(1445)-大永3年(1523)、藤原氏北家長家流。御子左家の末裔。権大納言持為の子、子に為孝。足利義政より政の字を贈られ政為に改名したという。
邦雄曰く、春に飽かぬ心、幾年を閲しても惜春の心は変わらず余波は尽きぬ。「見し世」と「見ぬ世」、過去と未生以前を意味する、簡潔で含蓄の多い歌言葉だ。下句、殊に第四句も「見し」を省いてただならぬ余情を醸す。冷泉家の歌風を伝える碧玉集は三玉集の一つ。上冷泉為廣・三条西実隆とともに15世紀の風潮を示し、彼の作は殊に鮮烈な調べをもつ、と。


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見渡せば山もと霞む水無瀬川‥‥

2006-03-22 13:23:43 | 文化・芸術
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-今日の独言- 11年前の3月20日

 昨日は、素人目から見ても穴だらけの奇妙なWBCシリーズで、幸運にも恵まれて決勝戦に勝ち残った王ジャパンがキューバを降してチャンプになった騒ぎ一色に塗りつぶされたような一日だった。もちろんケチをつける心算は毛頭ない。あのクールな野球エリートだったイチローが、これまで決して見せなかった熱いファイターぶりを、まるで野球小僧のように惜しげもなくTV画面一杯にくりひろげる姿は意外性に満ちて、それだけでも見ている価値は充分にあった。
3月21日のこの日が、第1回WBCを王ジャパンが制した記念日として球史に刻まれることは喜ばしいことにはちがいないし、イチローを筆頭にこのシリーズの王ジャパンの活躍ぶりが、とりわけ一昨年からゴタゴタの続く斜陽化した日本のプロ球界に大きなカンフル剤となったことだろう。


 ところで、11年前の1995年の一昨日(3/20)は、オウム真理教団による地下鉄サリン事件が凶行された日だった。ちょうどこの日も一昨日と同じように、日曜と春分の日に挟まれた、連休の谷間の月曜日だった
この無差別テロというべき事件の被害者60人余への聞書きで編集された村上春樹の「アンダーグランド」を読みはじめたのは昨年の暮れ頃だったのだが、なにしろ文庫版で二段組777頁という大部のこと、折々の短い空白時を見つけては読み継ぐといった調子で、やっと読了したのは一週間ほど前だ。
本書のインタビューは事件発生の翌年の1月から丸一年かけて行われたらしい。被害者総数は公式の発表ではおよそ3800人とされているが、そのうち氏名の判明している700人のリストからどうやら身元を確定できたのは二割の140人余り。この人たちに逐一電話連絡を取り取材を申し込むという形で、承諾が得られインタビューの成立したのが62人だったという。
眼に見えぬサリンという凶器による後遺症やトラウマに今もなお苦しみ悩むそれぞれの日々の姿が縷々淡々と述べられているのだが、読む此方側がなにより揺さぶられるのは、彼ら被害者を襲う身体的な苦痛や心的障害がサリン被害によるものと、その因果関係を容易には特定できないということだ。このことは結果として被害者一人ひとりの心を二重に阻害し苦しめることになる。
本書を村上春樹がなぜ「アンダーグランド」と名付けたのかについては、彼自身がかなりの長文であとがきに書いているその問題意識から浮かび上がってくる。
「1995年の1月と3月に起こった<阪神大震災と地下鉄サリン事件>は、日本の戦後の歴史を画する、きわめて重い意味を持つ二つの悲劇であった。それらを通過する前と後とでは、日本人の意識のあり方が大きく違ってしまったといっても言い過ぎではないくらいの大きな出来事である。それらはおそらく一対のカタストロフとして、私たちの精神史を語る上で無視することのできない大きな里程標として残ることだろう。-略- それは偶然とはいえ、ちょうどバブル経済がはじけ、冷戦構造が終焉し、地球的な規模で価値基準が大きく揺らぎ、日本という国家の有り方の根幹が厳しく問われている時期に、ぴたりと狙い済ましたようにやってきたのだ。この<圧倒的な暴力>、もちろんそれぞれの暴力の成り立ちはまったく異なっており、ひとつは不可避な天災であり、もう一つは人災=犯罪であるから、暴力という共通項で括ってしまうことに些かの無理はあるが、実際に被害を受けた側からすれば、それらの暴力の唐突さや理不尽さは、地震においてもサリン事件においても、不思議なくらい似通っている。暴力そのものの出所と質は違っても、それが与えるショックの質はそれほど大きく違わないのだ。-略- 被害者たちに共通してある、自分の感じている怒りや憎しみをいったいどこへ向ければいいのか、その暴力の正確な<出所=マグマの位置>がいまだ明確に把握されないなかで、不条理なまま立ち尽くすしかない。-略- <震災とサリン事件>は、一つの強大な暴力の裏と表であるということもできるかもしれない。或いはその一つを、もう一つの結果的なメタファーであると捉えることができるかもしれない。それらはともに私たちの内部から-文字どおり足下の暗黒=地下(アンダーグランド)から-<悪夢>という形をとってどっと噴き出し、私たちの社会システムが内包している矛盾と弱点とを恐ろしいほど明確に浮き彫りにした。私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対し、現実的にあまりに無力、無防備であったし、その出来事に対し機敏に効果的に対応することもできなかった。そこで明らかにされたのは、私たちの属する「こちら側」のシステムの構造的な欠陥であり、出来事への敗退であった。我々が日常的に<共有イメージ>として所有していた(或いは所有していたと思っていた)想像力=物語は、それらの降って湧いた凶暴な暴力性に有効に拮抗しうる価値観を提出することができなかった、ということになるだろう。」


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-27>
 見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となにおもひけむ
                                    後鳥羽院


新古今集、春上、男ども詩を作りて歌に合せ侍りしに、水郷春望。
水無瀬川-歌枕。山城と摂津の境、現在の大阪府島本町を流れる水無瀬川。
邦雄曰く、元久2年6月15日、五辻御所における元久詩歌合の時の作。「なにおもひけむ」の鷹揚な思い入れが、上句の縹渺たる眺めに映えて、帝王の調べを作った。二十歳の時の院初度百首にも「秋のみと誰思ひけむ春霞かすめる空の暮れかかるほど」があり、作者自身の先駆作品とみるべきか、と。


 朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人  九條家良

衣笠前内大臣家良公集、雑、弘長百首。
浜名の橋-歌枕。遠江の国、静岡県浜名湖に架かる橋。
邦雄曰く、橋は霞に中断されて、旅人は、その霞を渡り継ぐ他はない。言葉の世界でのみ可能な虚無の渡橋とでも言おうか。浜名の橋は貞観4年に架けられた浜名湖と海を繋ぐ水路の橋。袂に橋本の駅あり、東海道の歌枕としていづれも名高い、と。


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