山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

満潮の流れ干る間を逢ひがたみ‥‥

2006-08-23 17:14:36 | 文化・芸術
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-表象の森- 円空の音楽寺と鉈薬師を訪ねて

 一昨日(8/21)のことだが、円空仏の12神将探訪とばかり名古屋方面に出かけた。
当初、車で行くつもりだったが、ブログで知り合った名古屋在住のT君が案内役を買ってくれるというので、お言葉に甘えて彼の車で移動することに。
という訳で、家族を伴っての初体験の電車の旅となったのだが、もうすぐ5歳になる幼な児は、なにしろ大阪市内の地下鉄くらいしか乗ったことがないから、すこぶるご機嫌だった。難波から近鉄の名古屋行は車中2時間あまり、幼な児には退屈するほど長くもなく手頃なものだったろう。


 名古屋駅に降り立って待つほどのこともなくT君の車がやって来た。
先ずは一路、江南市の音楽寺をめざして走ること一時間あまり。ごくご近所にお住まいなのだろうが、総代の坪内さんというお爺さんが、約束の11時半にはまだ少し間があるのに、お堂の前に立って待っていてくれた。
二、三年前に建てられたというまだ真新しい堂舎に入ると、正面中央に薬師如来と日光・月光菩薩の三尊像、左右に5体と6体、12神像のうち戌の像だけが欠けており、後世の模像が別に置かれている。その戌の像は、その昔、何故かだれかに持ち去られたのであろうが、現在、安城市の長福寺に無事在ると確認されているそうな。
他に、護法神像と荒神像が鎮座しているが、写真の荒神像を見ればおおかた納得もいこうが、この像、現代アーティストたちの覚え頗るよろしく、全国の円空展示企画には引っ張りだこだそうで、坪内さんによれば、今や世界で最も著名な円空仏だと曰う。昨年もドイツ・ベルリンをはじめ3ヶ月間、海外を巡歴してきたとのことだが、近・現代芸術のフィルターを通したとき、この大胆なデフォルメと省略の効いた像が世界中で注目を集めるのはよくわかる。
音楽寺所蔵のこれら円空仏が、国はおろか県指定でさえなく、江南市の指定文化財だというから、些か驚かされもする。
40分ほど滞在したか、総代さんに謝して別れた後は、次なる目的の鉈薬師をめざして名古屋市内へと戻る。千種区の覚王山界隈の中心をなす日泰寺の縁日は毎月21日とかで、近くの鉈薬師もこの日のみ円空仏を拝観できるというので、これに合わせての今日の計画である。


 T君は日泰寺山門のすぐ西側の駐車場に車を停めて、ちょうど昼時だし先ずは腹ごしらえと、一行四人は参道に並んだとりどりの露天を見ながら下り行く。今日の名古屋は曇り空のこととて暑さも少しばかり和らいでいるとはいうものの、日陰のないコンクリート道は輻射熱でやはり暑い。月曜日というせいか月に一度の縁日風景としては、往来の人々も露天の数も少しさびしい気がする。
T君存知よりのインド風カレーの店は参道を半分あまり下ったところにあった。店内は黒塗りの古い木造家屋で、ヒンドゥー教の神様の絵やインド更紗などが壁に掛けられ、それらしきムードを醸し出してはいる。四人四様の注文にゆっくりと一品一品がテーブルに運ばれ、出揃ったところで、お冷やで乾杯の真似事などして一斉に食す。ふだん昼食を摂らない習慣の私などには些か胃が重くなるほどにも満ち足りて、もと来た参道を山門の方へと戻りゆく。昼食になにやら別の期待もあったらしい幼な児が少々むずかるので、露天のかき氷屋さんに暫時寄り道。着色剤がたっぷりのどぎついほど真っ赤なシロップのかかった氷に、幼な児は歯も舌も赤く染まるほどにご機嫌で頬ばりつづけていた。


 日泰寺山門の西側を歩いて、細い道を左へ折れてさらに道なりにゆくと、こんもりと樹々に囲まれた鉈薬師のお堂が見えた。
此処で目的の二つ目の円空12神将とめでたくご対面出来るはずであった。ところが好事魔多し、というより事実は私の手抜かり以外のなにものでもなかったのだが‥‥。
私たちがちょうどお堂の前庭に立った時、堂横から中年の夫婦者らしき二人、その後ろから彼らよりもっと年配の男性が一人出てきた。その中年男性が、われわれの姿を一瞥するや、まるで独り言を呟くように、しかも此方に視線を合わせないようにしながら、ぶつぶつという言葉に私は耳を疑った。
「時間だからもう閉めさせていただきました。」 たしかにそう聞こえた。そう言いながら彼らは此方に眼もくれずそそくさと立ち去ってゆくのである。愕然としながらさらにお堂に近寄ったところ、堂前に掛かった小さな白い札に、「拝観は毎月21日、時間は10:00から14:00まで」とある。
脳天にガンと一発喰らったようなものだった。私たちが到着したのはすでに午後二時を廻って15分になろうとしていたのだった。念には念を入れて公開時間まで厳密にチェックをしていなかった自分の手抜かりに打ちのめされつつ、直かに物言わず立ち去る中年男性らの態度に無性に腹を立てつつ、私は一瞬言葉を失い立ち往生してしまったのだった。
堂の格子窓から、まだ仄かな明かりの灯る堂内がかすかに覗え、堂内左側に並ぶ12神将の六体の一部がうっすらと見えるのを、目を凝らすようにして覗き見ていると、先刻、中年二人組とは別の方角へ立ち去っていった年配の男性がいつのまにか戻って来ていたとみえて、申し訳なさそうに私たちに声をかけてきた。
「警備会社でセキュリティ管理されているから、入れてやろうにもどうにもできない」とのこと。どうやらこの人はご近所に住む堂守さんのような人らしい。そして夫婦者と見えた中年二人は鉈薬師、別名医王堂の所有者筋であろうか。
堂守さんはそういいつつ、これは先刻の音楽寺の総代さんもそうだったが、ご当地自慢を得意気に語り出す。「此処は、あの有名な梅原猛さんだって、誰が来たって、公開の21日以外はお断りしとります。」と曰うたり、「昔の話で、これは聞いた話じゃが、棟方志功さんが、この円空さんを見て、わだがお父だばと言って、抱きしめなさったと。」などと仰るのだが、さて、棟方志功がこの鉈薬師の12神将を観たのがいつだったのか、果たしてあの「釈迦十大弟子」を生み出す前だったのか、後だったのか、この一点は私の大きな関心事なのだが、そんなことはこの堂守さんに確かめようもないから、黙って相槌を打つしかないのだが、その前にせよ後にせよ、志功が鉈薬師の12神将を観ていたということはどうやら動かない事実らしい。


 抑も、鉈薬師の円空12神将像を写真集で見たとき、棟方志功の「釈迦十大弟子」と、構想といいその形式といい、木像と版画の手法は違えど、あまりにも酷似している、同根類似の発想そのものではないか、とどうしても思ってしまうのだが、それは志功がこの12神将そのものから発想を得ているのだとしか思えぬし、時空を超えた円空と志功の、稀にあり得る偶然の一致という可能性についても、ありえぬことではないとも考えつつ、否、やはり直かにこの円空仏にまみえたからこそ、志功は啓示を受け、その導きのままにおのずと「釈迦十大弟子」が成ったのではないか、との思いがだんだんと膨らんできてしかたがないのである。
ずいぶん前に私は、長部日出雄が書いた「鬼が来た-棟方志功伝」をかなり印象深く読んではいるのだが、そのなかで志功と円空仏との出会いについて明瞭に記されていたものかどうか、この疑問に答えてくれる記載があったかどうか、いくら記憶を呼び戻そうとも思い出せないで、疑問氷塊は暗礁にのりあげたままなのである。
この問いの決着は早晩どうしてもつけないわけにはいかない私ではあり、宿題はいよいよ大きくなった一日でもあった。


 といった次第で、残念ながら鉈薬師の12神将をまじかに観ることは叶わず、あらためての機会を得なければならなくなってしまったが、この日帰りの電車の旅は、その口惜しさを残した分、却って意義あるものになっているのかもしれぬと思いかえし、わが身を慰めつつ、またぞろT君の車に身を預けて名古屋駅まで送ってもらい、帰路についたのだった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-40>
 満潮の流れ干る間を逢ひがたみ海松の浦によるをこそ待て
                        清原深養父


古今集、恋三、題知らず。
生没年不詳。舎人親王の末裔といわれ、清少納言の父元輔は孫。琴をよくし、古今集の有力歌人だが、三十六歌仙に入らず。小倉百人一首に「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」。古今集以下に41首。
邦雄曰く、潮流の干る間=昼は人目を憚り、海松(みるめ)=見る目の浦に寄る=夜を待つという。縁語と懸詞が裏表に絡み合って、水に身を任せたかの不安で冷え冷えとした心象風景が浮かんでくる。新古今には「恨みつつ寝る夜の袖の乾かぬは枕の下に潮や満つらむ」が採られ、これまた「寄潮恋」の趣あり。古今集の歌の方に、深養父の個性はうかがい得よう、と。


 なごの海潮干潮満つ磯の石となれるか君が見え隠れする  源頼政

従三位頼政卿集、恋、時々見恋。
なごの海-歌枕だが、越中国、摂津国、丹後国と諸説。那古の海、奈呉の海、名児の海とも、また奈呉の浦、奈呉の江とも。
邦雄曰く、愛人の顔が見えみ見えずみ、浜辺の石が潮の満干で隠顕するのと同様だとの意を、「石となれるか」と言い伏せ、一首に泣き笑いに似た諧謔味を漂わす。破格な発想と磊落な修辞では並ぶ者のない武者歌人。この歌など、まるで20世紀の「劇画」の手法を先取りしているようだ。「なごの海」は、摂津が「那古」、越中では「奈呉」だが、いずれか、と。


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今人の心を三輪の山にてぞ‥‥

2006-08-20 22:32:58 | 文化・芸術
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-表象の森- 夏の汗と不易流行

 やはり、夏の汗は甲子園の高校野球がよく似合う。
早実と駒大苫小牧による決勝戦は、延長15回にても決着つかず、再試合となって勝負は明日へと持ち越された。
決勝戦の延長引分けによる再試合は、青森・三沢高校の太田幸司が悲運のヒーローを演じた1969(S44)年以来だという。
TVの画面を通して早実の斉藤投手の力投を見ながら、私の脳裏に甦ってきたのは、太田幸司もさることながら、古い話でまことに恐縮だが、あれは1958(S33)年の準々決勝だったか、坂東英二を擁した徳島商と富山・魚津高との延長18回引分けの試合だった。ちなみにこの延長戦、坂東投手は魚津から25の奪三振を記録し、翌日の再試合も投げきって勝利の女神を引き寄せるのだが、この大投手と熱闘を演じた魚津ナインたちの敢闘の汗は、清新な情熱の迸る結晶そのものだった。

 高校野球も時代とともに移ろいゆきずいぶんと様変わりしてきたこと、とりわけ野球留学という名の他府県への流出が、甲子園出場の早道とばかり全国に席捲しているという問題もあり、野球にかぎらず幼少からのスポーツ・エリート育成のあり方が、この社会に一定のネットワークやパターンを形成し、構造化されるようになってしまったのを見るにつけ、スポーツの本然たる姿は隠され埋没してゆくことに、些かなりとも焦慮の念を抱かざるを得なかったのだが、
偶々休日の昼下がり、見るともなく眼にしたこの試合は、高校野球における、いまだ不易なるもの、本然と変わらざるものを、この私にも垣間見せてくれたようで、少しばかり胸の熱くなるものをおぼえたことを記しておきたい。

 「不易流行」とは、蕉風俳諧の理念として芭蕉が説いたものだが、はじめは<不易>と<流行>という二つの句形ありきと受けとめられたようだが、芭蕉の真意は然に非ず、不易は本(もと)、流行は風(ふう)と、次元の異なるものと見るべしで、<不易流行>は一句の内に込められている、込められ得ると見るべきだと、弟子たちにも認識されるようになったといわれる。
岩波の仏教辞典をひもとけば、
<本>とは、宋学的世界観にもとづく<風雅の誠>という理念である。それが<新しみ>を求めて創られる句の<姿>にあらわれるのを<流行>という。
去来の「三冊子」にては、「不易を知らざれば実(まこと)に知れるにあらず、不易といふは、新古によらず、変化流行にもかかはらず、誠によく立ちたるすがたなり」と、人口に膾炙した章句となる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-39>
 橘の蔭履む路の八衢に物をそ思ふ妹に逢はずて  三方沙弥

万葉集、巻二、相聞。
生没年、伝不詳。持統朝から文武朝に歌を残す万葉歌人。
八衢(やちまた)-いくつかの道の分かれるところ
邦雄曰く、詞書に「三方沙弥、園臣生羽の女を娶(ま)きて、未だ幾許の時を経ずして病に臥して作る歌三首」とあるその一首。上句は第四句を導き出す序詞ではあるが、傑作の黒白映画の一場面を見るように夏の繁華街の橘並木の蔭と、行き交う人を活写して、結句の歎きに精彩を添える。逆に下句の悲しみは上句のための、抒情的な修飾をしているかにも見える、と。

 今人の心を三輪の山にてぞ過ぎにし方は思ひ知らるる
                        前斎宮甲斐

金葉集、恋下、恨めしき人のあるにつけて昔思ひ出でらるる事ありて。
生没年不詳、天永元(1110)年、第56代斎王・恬子(やすこ)内親王につき従った女官・甲斐のこと。
邦雄曰く、昔の安らぎ、来し方の幸せが、今ようやく身に沁みて思われる。冷たい人の心を見たゆえに。詞書も歌の心を語っているが、三輪山と杉は数多の恋歌の本歌となった古今・雑下の「わが庵は三輪の山もと」。甲斐は千載集にいま一首「別れゆく都の方の恋しきにいざむすびみむ忘れ井の水」が入選、堀河院皇女喜子内親王群行の時の作と伝える、と。


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蓬生の末葉の露の消えかへり‥‥

2006-08-19 10:18:36 | 文化・芸術
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-表象の森- それでも帰りたい

 「それでも帰りたい」、昨日付、毎日新聞の一面見出し。
20年を越えてつづいたスーダン南北内戦による破壊は、約400万人の家を奪ったという。記事はケニア北部のカクマキャンプに暮らす9万余の難民たちの実態を伝える。
昨年1月の和平合意で、国外に逃げた難民や国内避難民の帰還が始まったが、家族の離散やインフラ破壊の影響は深刻だという。なにもかも破壊され、疫病の流行にもなすすべがないという故郷に、「それでも帰りたい」との思いだけはつのる。


 以下は2004年時点の数値のようだが、
世界で約4,000万人が、武力紛争により家を追われて生活しており、
03年だけでも、新たに640万人が難民または避難民となったという。
安全を求めて国境を越えた難民が1,190万人、
自国内で避難している国内避難民が2,360万人。
ほとんどの国が難民を受け入れてはいるが、そのなかには多くの最貧国が含まれているという、坩堝のような実態の理不尽さには、言葉を失うばかりだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-38>
 筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも
                         作者不詳


万葉集、巻十四、東歌、常陸国の歌。
筑波嶺(ツクバネ)-常陸国の筑波山のこと、男体山と女体山の二つの峰。
新桑繭(ニイグワマヨ)-新しく取れた繭、今年の繭。 御衣(ミケシ)-「けし」は「着(ケ)す」連用形の名詞化。衣服の尊敬語。
邦雄曰く、筑波嶺は女男の二峰を持ち、春秋の歌垣で知られていた。繭紬の織りたての香が漂うように、初々しく健やかな調べ。あなたの衣が着たいとは、なんと素朴な、大胆な愛の告白か、と。


 蓬生の末葉の露の消えかへりなほこの世にと待たむものかは
                         藤原良経


六百番歌合、恋、待恋。
邦雄曰く、恋歌のほとんどは遂げ得ぬ愛の悲嘆で占められ、六百番歌合・恋五十題にひしめく六百首もまたこの例に漏れないが、惻々として魂を冷やすかの趣、この蓬生を超える作は少ない。逢うのはもはや死後と、暗に決意したこの調べの凄まじさ。第三句「消えかへり」の末細る調べは天来とも言うべく、絶妙、と。


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あきづ羽の袖振る妹を‥‥

2006-08-17 17:27:21 | 文化・芸術
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-表象の森- ともすれば地獄のほのを

  花を愛し月を愛する、やゝもすれば輪廻の業、
  ほとけをおもひ経をおもふ、ともすれば地獄のほのを‥‥


 「一遍聖絵」の冒頭には、長い果てしのない遊行の旅へと、伊予の国を出立する際の姿が描かれているが、旅立つ一行は5名、一遍と、超一、超二、念仏房、そして一遍の弟とされる聖戒-一遍聖絵の制作者-である。
この超一、超二と名づけられた尼僧は、一遍が還俗していた頃の嘗ての妻であり、その女児だという説がある。
時に、文永11(1274)年2月8日、蒙古襲来の元寇、文永の役はこの年の10月であった。


 この超一が旅の途次儚くも死んだと思われる記載が、往生の記録である「時衆過去帳」に、弘安6(1283)年11月21日、超一房とあり、これが同一人物であり、嘗ての妻であるとすれば、彼女は9年の歳月を一遍に付き随い、野路の草の露と果てたことになる。
無論、男女の愛欲を打ち棄て、乗り超えんとした同行の旅であったろう。
一遍時衆は、その遊行においても、念仏踊においても、つねに男女が同行し、愛欲破戒の危機を孕みつつ、集団として動きつづけた。
それは、捨てきる事への試練のくびきでもあったろうが、
捨てても捨てても捨てきれぬ心への慈しみであったのかもしれない。
さもなければ、
花を愛し月を愛する心が、仏を思ひ経を思ふ帰依が、
ややもすれば輪廻の業ともなり、ともすれば地獄の焔ともなる、
という絶対的矛盾の内に、宙吊りのごとくある、生きることの相を捉えきれないだろう。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-37>
 あきづ羽の袖振る妹を玉くしげ奥に思ふを見たまへわが君
                          湯原王


万葉集、巻三、雑歌、宴席の歌二首。
生没年未詳、志貴皇子の子、兄弟に光仁天皇や春日王。天平前期の歌人、万葉集に19首の短歌。
邦雄曰く、紗か絽か羅か、脈翅目の羽根さながら、透きとおる衣を着る麗人に、直情を披瀝するその言葉の彩に、君の艶姿がおのずから浮かび上がってくる。題に即するなら、宴の席に侍る舞姫の一人でもあろう。必ずしも愛の告白とはかぎるまい。自然、調べは軽快で、挨拶歌の楽しさも溢れている、と。


 見せばやな君しのび寝の草枕たまぬきかくる旅のけしきを
                         藤原忠通


金葉集、恋上、旅宿恋を。
承徳元(1097)年-長寛2(1164)年、道長の直系にて関白太政大臣忠実の子。兼実・慈円らの父、忠良・良経らの祖父にあたり、法性寺関白と号す。金葉集初出、勅撰入集59首。
邦雄曰く、旅の夜毎に引き結ぶ草枕のその草にも、君を恋いつつ、逢えぬ歎きに流れる涙は、玉となって、あたかも緒に貫くように落ちかかる。袖はしとどに濡れて乾くまもない。「見せばやな」の願望初句は常套手段の一つながら、一首自体が美しい工芸品に似た光と潤いをもち、恋歌の一典型として鑑賞に耐えよう、と。


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思ふことみな盡きねとて‥‥

2006-08-16 17:46:35 | 文化・芸術
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-表象の森- 円空の十二神像

 円空の十二神像は四様の彫像群が残されている。
一は、愛知県扶桑町の正覚寺、

-正覚寺の12神将-

二は、愛知県江南市の音楽寺、
円空がこの寺に立寄り逗留したのは延宝4(1676)年とされるから45歳である。
-音楽寺の12神将-

三に、名古屋市千種区の鉈薬師堂(別名医王堂)に残されるもの、寛文9(1669)年というから38歳の作。
-鉈薬師の12神将-

四に、大垣市の報恩寺に残されるもの、これは寡聞にしていつ頃の作か不明。
-報恩寺の12神将-

 五来重はその著「円空と木食」のなかで、正覚寺と音楽寺の12神将を比較して次のように手短に記している。
「正覚寺十二神将の装飾過剰に対して、愛知県江南市の音楽寺の、薬師、二脇侍、十二神将、大護法善神は、円空芸術の最高位を示したものである。物象の立体的な捉え方と、その表現技巧が、間然するところなくゆきとどいている。堅い木材を塑泥のごとく自由自在にこなし、かつ無駄がない。忿怒が内面的に抑えられて微笑となる。しかし、欠点をいえばそれはあまり巧みすぎて力動感にやや欠けることである。」
 五来氏が、名古屋千種区の鉈薬師の12神将を観られていたかどうか判らぬが、私などからいえば、この若書きの、しかも簡略化のよく効いた、素朴・単純な形の12神将のほうが、よほど魅力的に感じられる。
サイトの説明によれば、「堂内には像高1.2㍍の本尊薬師仏のほか、鉈彫りで有名な円空(江戸時代初期の僧)作と伝えられる脇侍の日光・月光の二菩薩、十二神将像が安置してある。円空仏は毎月21日に開帳される。」というから、是非、ナマの円空12神将を観てみたいものである。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-50>
 夏と秋と行きかふ空の通ひ路はかたへ涼しき風や吹くらむ
                        凡河内躬恒


古今集、夏、六月のつごもりの日詠める。
邦雄曰く、夏の初めの貫之の傑作「花鳥もみな行き交ひて」と鮮やかな照応をなす発想。縹渺たる大空のどこかで、衣の袖を翻しつつ、夏と秋が擦れちがうさまを幻想する。下句のことわりめくのは、作者のかけがえのない発見・創意の証ととるべきだろう。この歌、古今集夏歌の巻軸。「かたへ」は片一方の意。今一方は熱風が鈍色に澱んでいると見るべきか、と。


 思ふことみな盡きねとて麻の葉を切りに切りても祓へつるかな
                         和泉式部


後拾遺集、雑六、誹諧歌、水無月祓へを詠み侍りける。
邦雄曰く、勅撰集あるいは私家集の夏の巻末を占めるのがほとんど六月祓。ほとんど同趣同技法だが、この麻の葉は作者独特の鋭く劇しい気魄に満ち、読む者の胸に迫る。しかもこの歌、「みなつき」を物名歌風に詠み込んで、部類も誹諧歌だ。第四句の「切りに切りても」のあたり、憑かれて物狂いのさまを呈する巫女の姿が、まざまざと顕って凄まじい、と。


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