山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

宿は荒れぬうはの空にて影絶えし‥‥

2006-08-15 17:16:10 | 文化・芸術
Zetsubou

-表象の森- 終戦と靖国と玉音と。

 8.15、終戦記念日である。
9月に任期満了を控えた小泉首相は、念願だった?靖国神社への8.15参拝を、どうやら初志貫徹とばかり強行するらしい。先頃マスコミを賑わした、靖国へのA級戦犯合祀問題に触れた昭和天皇の発言、いわゆる富田メモに、内心深く動揺もし、心の棘となって刺さっていたろうに、変人奇人の宰相は、どこまでも平静を装い、01年の総裁選公約どおり、本日の参拝をもって有終の美としたいのだろう。
と、これを書き継いでいるおりもおり、午前7時30分過ぎ、TVでは小泉首相靖国参拝の報道を伝え始めた。
本人としては、おのが信念に基づく行動であり、美学とも考えているのだろうが、多くの国民には、餓鬼にも似て、ただの天の邪鬼にしか映らないだろうと思えるのだが‥‥。


 61年前の終戦の詔勅、すなわち玉音放送だが、「絶望の精神史」によれば、金子光晴は山中湖畔の落葉松林の小屋のなかで、召集をぬらりくらりと逃げとおさせた息子と二人で、良く聞こえもしないラジオで聞いたらしい。妻の三千代は、五里の道を歩いて富士吉田まで、食糧を手に入れるために朝から出かけていたという。
玉音を聞くには聞いたが、良く聞き取れないラジオで、終戦の詔勅とは判らず、「何かおかしいぞ」といいながら、壊れラジオを叩いたり振ったりした、とも書いている。結局午後4時過ぎになって、出かけていた三千代らが帰ってきて、戦争が終わったと街で大騒ぎになっていると聞かされて、やっと玉音の意味が判った、と。


 終戦の詔勅、61年前の8月15日の正午きっかりに始まった、この玉音放送を、日本国民のどのくらいの人々が聞き、またその意味が正確に伝わったのかは、実際のところはよく判らない。
当時、ラジオの受信契約数は全国で5,728,076件、全世帯への普及率は39.2%だったというから、現在のようなテレビのほぼ100%普及をあたりまえの日常として受け容れている感覚からすると、彼我の差は甚だしく、とても想像しにくいところだ。


 まだ幼い子どもだった頃、よく親に連れられていく映画館の暗闇のなかで、上映されるニュースに、偶々8.15の時期でもあったのだろう、この終戦の詔勅の一節が流されるのを、なんどか聞いた記憶があるが、ほとんど肉感を感じさせないモノトーンのあの調子が、まるでなにか不吉なおまじないか呪文のようにも聞こえ、なんともいえない居心地の悪さを感じたものだが、子ども心に何回も重ねて反復強化されてしまった、あの玉音の語りの調子は、耳の底深くはっきりと痕跡を残して、この先も決して消え去ることはないのだろう。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-49>
 水上も荒ぶる心あらじかし波も夏越の祓へしつれば  伊勢大輔

後拾遺集、夏、六月祓へを詠める。
邦雄曰く、後拾遺・夏の巻軸歌。拾遺・夏・藤原長能の「さばへなす荒ぶる神もおしなべて今日は夏越の祓へなりけり」の本歌取り。「夏越」に「和む」を懸けて第二句に対置させつつ、同時に祓の真意も伝えているところ、夏の締めくくりにふさわしいヴォリュームと言うべきだろう。なお、古代では6月半ば以降にも、便宜があれば随時に祓をしたと伝える、と。


 宿は荒れぬうはの空にて影絶えし月のみ残る夕顔の露  心敬

十体和歌、有心体、疎屋夕顔。
邦雄曰く、仄白い瓢(ふくべ)の花影と露、それ以外には見る影も無いあばら屋の姿であるが、何か物語めいて、恋の面影さえ浮かんでくるような味わいのある歌。連歌風の臭みさらになく、「影絶えし月のみ」が上・下に分かれて、ぴしりとアクセントを強調し、初句6音の思い入れも効果的である。空にはもはや見えぬ月が、夕顔の露に映っているとは、実に微妙だと。


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手にならす夏の扇と思へども‥‥

2006-08-14 17:21:52 | 文化・芸術
Nakahara0509181391

-表象の森- 金子光晴の関東大震災詩篇

 金子光晴の初期詩篇に「東京哀傷詩篇」と名づけられた、大正12(1923)年9月1日の、関東大震災に遭ったときに綴った詩群がある。明治28(1895)年生れの金子光晴はこの年28歳。被災の後、西宮市に住む実妹の嫁ぎ先、河野密の家に、その年の暮れまで厄介になっている。

「焼跡の逍遥」

もはや、みるかげもなくなった、僕らの東京。
なにごとの報復ぞ。なにごとの懲罰ぞ。神、この街に禍をくだす。
 花咲くものは、硫黄と熔岩。甍、焼け鉄。こはれた甕。みわたす堆積のそこここから、余燼、猶、白い影のように揺れる。
 この廃墟はまだなまなましい。焼けくづれた煉瓦塀のかたはらに、人は立って、一日にして荒廃に帰した、わが心を杖で掘りおこす。
 身に痛い、初秋の透明なそらを、劃然と姿そろへて、
 夥しい赤蜻蛉がとぶ。


 自然は、この破壊を、まるでたのしんでゐるようだ。
 人には、新しい哀惜の情と、空洞ににじみ出る涙しかない。
 高台にのぼって僕は展望してみたが、四面は瓦礫。
 ニコライのドームは欠け、神田一帯の零落を越えて
 丸の内、室町あたり、業火の試練にのこったビルディングは、墓標のごとくおし並び、
 そこに眠るここの民族の、見果てぬ夢をとむらうやうだ。


 僕の網膜にまだのこってゐるのは、杖で焼石を掘り起こしてゐた
 白地浴衣、麦藁帽の男の姿だった。
 その姿は、紅紫の夕焼空に黒くうかび出て。身にかへがたい、どんな貴重品をさがしゐるのか。
 わかってゐる。あの男は、失った夢を探しにきたのだ。
 そして、当分、この焼跡には、むかしの涙をさがしにくるあの連中の
 さびしい姿が増えることだろう。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-48>
 手にならす夏の扇と思へどもただ秋風の栖なりけり  藤原良経

六百番歌合、夏、扇。
邦雄曰く、類歌は夥しかろう。だが扇を「秋風の栖」と観じたのは良経の冴えわたる詩魂であり、燦然として永遠に記念される。俊成は右の慈円の作「夕まぐれならす扇の風にこそかつがつ秋は立ち始めけれ」を勝としたが、曖昧な判詞で首を傾げるのみ。うるさい右方人でさえ、良経の歌に「夏扇に風棲むは新し」と讃辞を呈しているが、歌合にはめずらしい現象、と。


 六月やさこそは夏の末の松秋にも越ゆる波の音かな  飛鳥井雅経

千五百番歌合、五百十九番、夏三。
邦雄曰く、波の越えることはない歌枕「末の松山」を、「夏の末の松」と、季節の中に移して、遙かに響く潮騒に秋を感じさせる。手のこんだ技法は、30代前半の雅経ならではの感。左は小侍従の「禊川なづる浅茅のひとかたに思ふ心を知られぬるかな」で、良経判は右雅経の勝。左の歌、四季より恋の趣が濃厚で、80歳を超えてなお健在の小侍従だ、と。


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松風の音のみならず石走る‥‥

2006-08-12 20:08:36 | 文化・芸術
0505120291

-表象の森- 一茶の句鑑賞

  手に取れば歩きたくなる扇かな

文化15(1818)年、56歳の作。なにげなく手にした扇、その扇によって、思わず埋もれていた心の襞が掴みだされたというような感じがある。ふとなにかに向かって心が動いた、ふと歩きたくなったのである。そこには必然的なつながりなどなにもないが、この偶然と見える心の動きは、無意識の深いところでは、なにか確かなつながりになっているのだろうか、そんな気がしてくる句である。

  木曽山に流れ入りけり天の川

前出の句と同じ年の作。木曽の山脈、その鬱蒼としてかぐろい檜の森影に、夏の夜の天の川が流れ入っているという。その傾斜感が鮮やかだ。芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」はおそらく虚構化された自然の景なのだろうが、一茶の句はそこのところがやや曖昧にあり、景の中から滲み出てくる迫力においては一歩譲らざるを得ないが、茂吉流の実相観入からいえば、一茶のほうがそれに近いのではないか。

  虫にまで尺とられけりこの柱

「おらが春」所収、文政2(1819)年の作、一茶57歳。
尺取虫は夏の季語だが、「尺をとる」には、寸法をはかられることから、言外に軽重を問われるという一面がある。虫にまで寸法を測られている柱は、自分の分身なのだろう。心秘かにおのれを省みてなにやら自嘲している風情が色濃くにじむ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-47>
 身に近くならす扇も楢の葉の下吹く風に行方知らずも  藤原家隆

千五百番歌合、四百九十番、夏三。
邦雄曰く、秋がもうそこまできている。そよと吹く楢の下風に、扇も忘れがち。初句と結句が対立・逆転するところ、意外な技巧派家隆の本領あり。百人一首歌「風そよぐならの小川の夕暮は」などという晩年の凡作と比べると、まさに雲泥の差。この歌合では左が肖像画家藤原隆信、良経判は問題なく右の勝とした。「ならす」は「馴・鳴」の両意を兼ねる、と。


 松風の音のみならず石走る水にも秋はありけるものを  西行

山家集、夏。
邦雄曰く、山家集の夏の終りに近く、「松風如秋といふことを、北白河なる所にて、人々詠みし、また水声秋ありといふことを重ねけるに」の詞書を添えて、この歌が見える。「水にも秋は」が、まさに水際だった秀句表現に感じられて、ふと西行らしからぬ趣を呈するのは、この句題の影響による。それにしても、両句を含みつつ冴えた一首にする技巧は抜群、と。


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端ゐつつむすぶ雫のさざなみに‥‥

2006-08-12 13:56:26 | 文化・芸術
Uvs0504200661

-表象の森-  今月の本たち

 岩波文庫版の「金子光晴詩集」は清岡卓行によるアンソロジィだからたのしみ。
その清岡卓行は、去る6月3日鬼籍の人となった。1922年の生れだから83歳。
詩人だが小説もものした。中国大連に生れ、戦後までの20数年間を大陸に過ごした。
1970(S45)年に小説「アカシアの大連」で芥川賞を受賞している、やや遅咲きの作家。
清岡の晩年の代表作に「マロニエの花が言った」がある。「イマジネールな都市としての両大戦間のパリを舞台に、藤田嗣治、金子光晴、ロベール・デスノス、岡鹿之助、九鬼周造らの登場する、多中心的かつ壮大な織物と言うべきこの小説は、堀江敏幸をして「溜息が出るほど美しい」と言わしめた序章をはじめ、随所に鏤められたシュルレアリスムの詩の新訳もひとつの読みどころであり、詩と散文と批評の緊密な綜合が完成の域に達している」と。近いうちに読んでみたい。


 それぞれ分野は異なるが、「人体-失敗の進化史」、「地中海-人と町の肖像」、「貝と羊の中国人」の新書類は、新聞書評による選択。「三島由紀夫」については、吉本隆明の解釈で充分じゃないかと思っているが、別な切り口からのアプローチも知るに如かずといったところ。
「名僧たちの教え」は共著に先頃読んだ「日本仏教史」の末木文美士も名を連ね、ともに信頼できようし、44人もの名僧・高僧たちをかいつまんで語ってくれようから、総覧して頭の整理に有効だろう。
「フーコー・コレクション」は、しばらくは積ん読になるだろうが、いずれ読みたくなる時がきっとあろう。


今月の購入本
 金子光晴「金子光晴詩集」岩波文庫
 M.フーコー「フーコー・コレクション(1)」ちくま学芸文庫
 遠藤秀紀「人体-失敗の進化史」光文社新書
 樺山絋一「地中海-人と町の肖像」岩波新書
 加藤徹「貝と羊の中国人」新潮新書
 橋本治「三島由紀夫とはなにものだったのか」新潮文庫
 山折哲雄「名僧たちの教え-日本仏教の世界」朝日新聞社

図書館からの借本
 ヤーコブ・ブルクハルト「美のチチェローネ-イタリア美術案内」青土社
 中沢新一「芸術人類学」みすず書房
 葛飾北斎「初摺・北斎漫画(全)」小学館
 池上洵一「修験の道-三国伝記の世界」以文社
 高村薫「新リア王-上」新潮社
 高村薫「新リア王-下」新潮社


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-46>
 夕涼み閨へも入らぬうたた寝の夢を残して明くる東雲  藤原有家

六百番歌合、夏、夏夜。
邦雄曰く、短か夜の、その黄昏の納涼に、ふと手枕でまどろんだものの、気がつけば暁近かったという。歌合の右が家隆の「澄む月の光は霜と冴ゆれどもまだ宵ながら有明の空」で、俊成は有家の上句を難じて負にしているが、家隆の「霜と冴ゆれど」なども常識的、有家の下句の余情妖艶を称揚すべきだろう。初句が平俗に聞こえるのは痛いところだが、と。


 端ゐつつむすぶ雫のさざなみに映るともなき夕月夜かな  鴨長明

鴨長明集、夏、夏月映泉。
邦雄曰く、涙の珠に月が映る趣向は、俊成女にも先蹤があるが、掬ぶ泉の、雫によって生れる波紋に月が映り、かつ砕けるさまは、むしろ淡々として墨絵のような新しさがある。第四句が工夫を凝らしたところであろう。新古今歌人中では、反技巧派の作者の周到な修辞だ。「樹蔭納涼」題で、「水むすぶ楢の木蔭に風吹けばおぼめく秋ぞ深くなりゆく」もある、と。


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木をめぐりねぐらにさわぐ夕烏‥‥

2006-08-11 15:50:42 | 文化・芸術
0412190011

番外 <YahooBB光のトラブル>

 またもネットがつながらないトラブル、BBフォンだから電話も。
YahooBB光マンション(VDSL)は、なぜこうもトラブルが起きる?
昨日は朝の6:00頃から夕刻6:30頃までの12時間余り。
復旧してYahooBBサイトの障害情報を見れば、以下のごとき報告が掲載されていた。
 発生日時 8/10(木) 06:00頃
 対象のお客様  YahooBB光マンションサービスをご利用の一部のお客様
障害内容 上記お客様に対し、インターネット接続、BBフォン光、その他インターネットを用いる
オプションサービスが利用できなくなる障害が発生いたしました。
原因 お客様マンション内に設置している当社ネットワーク機器のソフトウェア不具合
対応 当該機器のリセットを行うことにより対応済み
実は、2ヶ月ほど前もまったく同じようなトラブルが発生、この時は復旧までに丸1日半を要した。
同じトラブルがあまり時日を置かない間に起こるなんて、ちょっとひどい話。
しかも、原因と対応の記載によれば、きわめて単純なトラブルのようにみえるし、現状では今後もたびたび起こるのではと心配される。


 Yahooに対し、速やかに改善を求めるには、どのように要請すべきか、
願わくば、詳しい方のお知恵を拝借したいと思うのだが、どなたかご教示いただけませんか。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏-45>
 道のべの清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ  西行

西行上人集、雑、題知らず。
邦雄曰く、技巧を盡した歌群の中で、この淡泊な調べにあうと、まさに一掬の清涼剤、まして夏の歌の中では救いさえ感ずる。たとえば新古今では、この歌の前に有家の「涼しさは秋やかへりて初瀬川布留川の辺の杉の下蔭」あり、良い対照といえよう。第四句に、ついつい快さに永く佇んで、時を越してしまった軽い驚きが、さりげなく込められている、と。


 木をめぐりねぐらにさわぐ夕烏すずしき方の枝やあらそふ
                        飛鳥井雅親


亜槐集、夏、夏烏。
邦雄曰く、烏が納涼の場所の争奪戦を演じているという見立ての面白さが身上であろう。15世紀も半ば近く、父の雅世が編んだ第二十一代集、新続古今には、23歳で5首入選。壮年の頃は応仁の乱の真っ只中で、邸宅も兵火に焼け、第二十二代集は沙汰止みとなる。「夏烏」と並ぶ「夏獣」題「山川や牛引連れて総角(あげまき)の芝生に涼む夏の夕暮」もなかなか面白い、と。


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